ってかさぁ。

この接続詞の続きはたいてい役に立たないけど、でも言いたくなることを書きためるブログです。

アーティストの在り方~ブラジル先住民の椅子 野生動物と想像力@東京都庭園美術館

東京都庭園美術館で開催されている展示を見てきました。

www.teien-art-museum.ne.jp

 

駅貼りのポスターで見かけて気になったので。本当は上野でやっているエッシャー展(http://www.escher.jp/)に行きたかったけれど、ものすごく混雑しているようなので、前から気になっていた庭園美術館に行くことに。

 

初めて行ったけれど、場所も展示も素晴らしかったです。

書いているうちに、展示で受けた感想と建物から受けた感想がごちゃごちゃになりそうなので、まず展示自体について書きます笑

 

まず概要をサイトから。

南米大陸、ブラジル北部のアマゾン河やシングー川流域で暮らす先住民の人びと。彼らの作る一木造りの椅子は、動物のフォルムや機能的なフォルムに独特な幾何学模様が施されており、ユニークな造形作品として捉えることができます。元々、先住民にとっての椅子は、日常生活の中で使用したり、シャーマンによる儀式や結婚式等の特別な機会に用いるなど、彼らの生活や伝統、独自の神話と色濃く結びついており、コミュニティ内の文化的・社会的なシンボルでもありました。それが今日、コミュニティの外との繋がりから刺激を受けて、自らのアイデンティティを自然を捉える眼に求め、用途や伝統に縛られないより多様かつ自由な表現が生まれてきています。

東京都庭園美術館|ブラジル先住民の椅子 野生動物と想像力|2018年6月30日(土)-9月17日(月・祝)

 

一本の木から削り出される椅子。動物をモチーフに様々な模様が施された椅子が、館内のそこかしこに展示されていました。

 

ヒョウや鳥、猿、バク、いろんな動物がモチーフになっていて、それぞれ個性があって愛らしかったです。猿はしっぽがくるんと丸まっていたり、バクは長い鼻にモダンな模様が描かれていたり。目がキラッとするなと思ったら貝を埋め込んでいるものもありました。凛々しいヒョウと思ったらぺろっと舌が出ていたり。一本の木から5個くらいの椅子を作るそうですが(サイズにもよるけど)、どの椅子もニスを塗ったかのようにきれいに脂がのって(?)いて、美しかったです。模様が目立ちすぎることもなく、動物らしさとアートらしさのバランスが素敵でした。

 

ただ、見ていて違和感があったのが、作品説明。美術館に行くと、たいてい作品の脇に作品名など情報をまとめた小さいボードがありますね。タイトルはもちろん、作者の名前、制作年代、作品の材料。有名作品であれば、その作品にまつわるエピソードもまとめてある。「美術館が混むのはみんながこれをじっくり読んでいるからでは?」と思ったこともあるくらい。作品には「補足情報」がセットで、それを見て「なるほど、これはこういう作品なのね」と情報をインプットしながら鑑賞することが多いです。

 

今回の椅子。作品の横にあった補足情報は、以下3点のみ。

・モチーフになった動物

・制作した先住民族の名前

・制作者名

 

ほぼ作品情報がない。

しかも「作者不詳」なんてのも多い。

 

先住民族の名前は、入場の際にもらうパンフレットに解説が載っていたので、それを読んで、ふむふむと。今回は17の先住民の作品が展示されていたのですが、それぞれの先住民ごとに作風が違うようで、それについてパンフレットに細かく記載されていました。

 

動物は見たらわかるものが多かったけれど、作品名がないので、ある意味それ自体を見て楽しむことができました。「なんだこれ?」って思ったのは「エイ」くらい笑

 

特に困ったのが、制作年代がない。いつ作ったんだろうと思いました。古いのか、新しいのかよくわからない。そんなに傷んでいないものも多いし。古ければ「昔からこんなにアーティスティックで素敵だったのね」とか、「よくこんなのが残っていたね」とかの感想を持つし、新しければ「今もこんなモダンなものをジャングルで創っているのか」みたいな感想を持つし、「いつ」作られたのかってけっこう意識するよね。

 

それがないので、古いのか、新しいのか、もやもやしたまま展示を見続けました。モノじたいは面白いし素敵だな、とは思うんだけど。

 

展示は本館→新館と移動して後半へ。新館には映像作品がありました。実際に現地の先住民が椅子を作っているところを取材した映像17分。先住民に東京都庭園美術館の館長 樋田豊次郎さんがインタビューする取材映像25分。17分のほうだけ見て終わりにしようかな、と思っていたけど、想像以上に面白くて見入ってしまいました。

 

森に入っていって、木を切り倒す。その場で木を5つくらいに分けて、椅子の大枠を作る(ジャングルの中で!)。持ち帰れるサイズ、重さになったら村に持ち帰って、細かい仕上げ作業へ。彼らはそれぞれがアーティストで、子供のころから親兄弟が作っているのを見ながら学んで、個々人の感性で椅子を作っていく。それが現代も続いている。

 

ここまで、見て、ああ、だから制作年代がないのかと思いました。今も続いている作品なのだから。

 

そのまま25分のインタビュー映像へ。ここが激熱だった。

メイナクという先住民の兄弟に、館長がインタビューしている映像。ここで、すごく印象的だった言葉が、

「私たちは、自分たちの作っている椅子を『民芸品』と呼ぶのをやめたのです。『木彫芸術品』と呼んでいます。」

 

アーティストなのです、彼らは。先住民特有の珍しさとか、希少性を売りに出すのではなく、自分たちが一つずつ手作りで、自分たちのセンスで作り続けている椅子を「作品」として世に出したい、認められたい。そういう目的意識、プライドを感じました。

 

サンパウロビエンナーレという国際的なアートの展示会にも彼らの椅子は出展していて、それを機に取材も多く増えたと。「先住民」という枠組みで椅子を作っているのではなく、先住民族それぞれで創り方も考え方も違うし、それぞれの暮らし方も違う。自分たちの存在自体をアピールするきっかけにもなったと話していた。

 

そうして外の人から作品を買いたいと言われたり注目されたりすることを通して、彼らは「先住民が自らの言葉で自らの芸術を語る必要がある」と感じる。自分たちは文字の文化がないから、口承で代々作り方を継承してきた。インタビューに応えていたメイナクの兄弟はポルトガル語を学び、外に情報を発信する。一方で、先住民族が作っている椅子それぞれについて、何をモチーフに誰がいつ作ったのか、何に使うものなのか(日常品か祭事用かなど)、材料の木はどのように選ぶのか、染料はどうしているのか、作り方や作品自体について記録を残すことにしたと言う。今までは残っていなかったから。

 

インタビューの中で「もし白人に『こういうモチーフで作ってくれ』と依頼をされたら、自分たちのアートのこだわりがあったとしても、注文を受ける?」という質問があった。ここでメイナクの兄弟は「喜んで受けると思う。新しいことにチャレンジできるから。自分たちの技術の幅が広がっていくから」と言っていて、すごく意外だった。伝統を守るという保守的な思考ではなく、技術を高めていくためにチャレンジをいとわないし、それを楽しんでいる。

 

彼らにとって外貨獲得手段でもあるアートとしての椅子の販売。まだ安価に扱われていると彼らは言う。「自らが自己評価を高めていく必要がある」と言う。

 

ただの民芸品やら伝統やら言っている人たちではない。彼らはアーティストであり、プロデューサーであり、自分たちの先住民としてのアイデンティティを守りながら世に発信していく、一人ひとりがその目的意識のもとに常にチャレンジを続けているのだ。

 

美術館や博物館にはよく行くけれど、「アーティストの在り方」というものに心をこんなに動かされたのは初めてでした。今回の展示は、あのインタビュー映像があってこその展示だと思います。

 

伝えたいものが明確な人というのは、こんなに強いのか、と感じました。

 

9月までやっているので、是非皆さん足を運んでください。

そんなに混んでないし、建物自体も美しくて素敵だし、格式ばってないし。

とてもおすすめです。ほんとに。

SNSに投稿していないとき

自分は正直言って、メンタルのコントロールが下手くそである。学生時代は抑うつ状態になり、いろいろなコミュニティを逃げるように脱ぎ捨て、社会人になってからも病院に通ったり薬を飲んだり。そんなことを数年繰り返している。傍から見ていてわからないという人もきっといるだろう。元気なときもあるんだもの。

 

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母が更年期で体調を崩していたときに「TVで見るような元気なおばあちゃんたちみたいに、年を取ってから旅行なんてできるかしら」なぁんて弱気なことを言っていた。

 

そのとき自分は、知ったふうに言い返したものである。

 

「ああいうふうにTVに映ったり旅行をしたりする人たちは、元気なときだけ外に出てるの。外に出て元気にしている姿を見てるから『元気なお年寄りだ、すごいなぁ』と思うけど、調子が悪いときは外に出ないで家にじっとしてるんだよ。私たちが目にするのは外で元気にしているところだけだから『元気なお年寄り』ってつい思っちゃうけど、みんなどこかしら具合悪いところもあるんじゃないの」

 

母は「なるほどね」と妙に納得したようだった。

 

***

 

SNSも同じである。

 

元気で楽しいこと、頑張っていることをついつい投稿したくなるものだ。逆に、元気がないことをつぶやいたり投稿したりすると「かまってちゃんかよ」「メンヘラか」みたいに思われるようにも感じて、どうも何も言えなくなる(そもそも投稿する元気がない場合もある)。結果的に、SNSのタイムラインはリア充(リア獣)が埋めつくしていくのだ。

 

そんなポジティブな彼らも、きっとしょんぼりするようなことも日々感じているだろう。そしてネットの世界じゃない誰かにこっそり相談したり、匿名性の高いどこかで憂さ晴らししたり、心にため込んだりしているんだろう。

 

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今日の『ほぼ日刊イトイ新聞』より。
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ほぼ日刊イトイ新聞

 ぼくが、なにかを言ったりやったりするとき、
 モノサシのようにしている「問いかけ」を紹介しておく。
 「わたしが、あなたに、なにか迷惑をかけましたか?」
 ポイントは、「わたし」と「あなた」を決めることだ。
 「わたし」ではない他人のことは答えられないし、
 「あなた」でない人の問題を、言われても困る。

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落ち込んだり、自信がなかったりするときは、

【「わたしが、あなたに、なにか迷惑をかけましたか?」】というこの問いかけがうまくできない。

 

「わたし」がものすごく小さくなる。
そしてここで言う「あなた」が「すべて」に近いくらい大きく怖いものになる。

 

「わたし」という存在自体に自信がなくなると、「わたし」の境界線が曖昧になる。「わたし」という基点がふにゃふにゃになってしまうと、周りの景色もぼわぼわと曖昧になっていく。「あなた」が得体の知れない怖いものになる。

 

そして、いつ何をやっても、誰かに対して迷惑をかけている気持ちになる。

 

「わたし」を確固としたものにすること、自信を持つこと。そうするとだんだん周りも見えてきて、判断を下したり意見を言ったり、そういうことがスムーズになってくる。でもそれが難しい。自分じゃできない。

 

周りにそういう人がいたら「あなたってこういう人よね、素敵ね」って教えてあげてください。

 

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SNSの「投稿する」を押していない、もう半分の気持ちも忘れずに、見透かしてあげたい。

あつい①「熱い」について

小学校高学年の頃だと思う。毎年8月のお盆のことである。

 

そもそも我が家は日本的なイベントをきっちりしっかりやる家で、お盆もそのうちの一つ、恒例行事だった。仏壇とは別に小机を出して小さな仏壇を作り、白い布を敷き、お線香を立てる香炉の灰をきれいにする。果物やお花をお供えして、キュウリの馬とナスの牛をあつらえる。家紋入りの提灯を納戸からえっちらおっちら持ち出して、説明書を見ながら組み立てる。しかも2つ。と思いきや、くるくる回る飾りのついた提灯も組み立てる。それでもって玄関に吊り下げる大きな提灯と、親戚から贈られた吊り下げ型提灯を組み立てる。提灯だけで5つもあるじゃないか。そして小さな仏膳を用意して、食べ物もお供えするのだ。送り火まではやらなかったかな。

 

 

(提灯のイメージが伝わるかな、と思いググったら、家で組み立てていたのは盆提灯と言うらしい。それなりのサイズ感である。

お盆・新盆・お盆提灯(盆ちょうちん)

 

そして家族全員でお墓参りに行く。両親と兄2人、5人で車に乗り込んで、エアコンがなかなか効かないと文句を言いながら15分くらいでお寺に着く。

 

お寺に着いたら仏花やお線香を買う。卒塔婆も買ったかな…このあたりは記憶が曖昧だ。綺麗で新しい卒塔婆を父が担いで運んでいた記憶がある。兄が水桶に水を汲んで、もう一人の兄と母が仏花の束を両手に持って、自分の家の墓地へ向かう。私はお線香の束を持っていた。

 

いつもは煙いから嫌がっていたのに、なぜそのときだけ自分が持っていたのかはよくわからない。2cmくらいに太い束になったお線香を2束、両手に持って、我が家の墓へとだらだら歩いていく。煙が後ろに流れていく。

 

お線香は火がついているから、風向きに気を付けながら運ぶ。風に煽られて燃え上がったら大変だ。自分の体を風よけにして、くるくる回りながら歩いていた。

 

お盆だし、どこの家もお墓参りをしているようで、墓地には目新しいお供えの花があちこちに色づいていた。味気ない墓地に白や黄色の花、青々とした葉っぱが鮮やかにぽつぽつと見つかるのは不思議な光景だった。

 

自分の家のお墓について、お花を供えて、墓石に水をかけて。お墓は狭いので、家族で順番にお線香をあげる。私が抱えていたお線香も少し短くなってきていた。家族に分けるためにお線香をいじっていたときに、「びゅっ」と風が吹いた。

 

あっっっっっつ!!!!!!!!

 

お線香の束が「ぼわっ」と燃えて、私の指にかかった。「火がかかった」というのは変だけど、そんな感じだった。

 

というか、とりあえず焦って熱くて、水桶に手を突っ込んだ。

 

そのとき、

 

「おまえ、指毛燃えてね?wwwwww」

 

というようなことを家族の誰かに言われた。

 

そんなん知らんがな。

 

この「ゆびげがもえる」という言葉の破壊力がすごすぎて、誰が言ったかも本当に指毛が燃えたかもよく覚えていない。

 

というか子供に指毛あったか?あっても産毛?

 

もうこの言葉の印象のせいで、私の記憶の中で「あったかなかったかわからない指毛」がチリチリしているのだ。私の指の上でチリチリしていやがる。今だってそんなに指毛ないのに。

 

お線香を落としてしまったのか、お墓参りは普通に終わったのか、もうその辺もよく覚えていない。お墓参りは毎年同じようにしているから、正直記憶もごちゃごちゃだ。

 

でも、「あつい」記憶を探ったら、一番に思い出したのがこの「ゆびげがもえる」事件だったのだ。

 

あのとき手を突っ込んだ水桶の水は、お寺の井戸水のせいか、とてもひんやりしていた。そのせいか、チリチリとした熱い感覚が水の中で目立っていた。

YUKIの『COSMIC BOX』の世界に沈みたい

カラオケで気持ちよく歌えたときは気分がいいものである。久々にジュディマリの『そばかす』を歌って、思ったより上手く歌えていい気分だった。

 

でも私が好きなYUKIの曲は『COSMIC BOX』という曲だ。

www.youtube.com

 

ただ、誰でも知ってる歌ではないのでカラオケでは歌わない。ジュディマリYUKIも好きだけど、歌手の中で一番好きというわけでもない。でもその中でいうとこの曲が一番好きだと思う(そもそも純粋なファンではないから、少ない知っている曲の中で選んでいる)。

 

翌日に『COSMIC BOX』を久々に聴きなおして、ついでにwikipediaを読んだら当時のYUKIのインタビューがあって。それを読んだ上でまた聴いて、歌詞を見直して。そんなことをしていると、昔とまた違うところで感動するのだ。

 

数年前は「公園の砂場に残されたシャベルを、宇宙に飛び立つロケットのコクピットに見立てる想像力たるや、素晴らしすぎかよ」とか思ってたんですが、今見るとまた違うわけで(そこもすごく好きなんだけどね)。

 

最後のほうのサビなんですが、

 

 遥か遠い昔から
 伝わる言葉も全部無意味だとしても
 誰かが紡いだ
 愛と未来の歌をうたおう

 

もはやここに「自分」とか「現在」はないんですね。

「愛と未来の歌」は「自分」ではなく「誰か」が紡いだものであって、それをうたおうよ、と言うんですね。しかもずっと紡がれてきたものが無意味だとしてもなんですね。

 

一方で1番のサビのところで「遥か遠い昔から意味のある偶然を伝えているんだ」と言う歌詞があって。伝えたいとか、残したいとか、そう思っているものとは別に「意味のある偶然」と言うものが私たちの中に残されているのだと。

 

日常生活でちまちま落ち込むとか、そういう次元をすっ飛ばしててすごいなと。

私たちはただ生きているだけで、ずっと昔から伝えられている何かを未来に残していくことができて、それって素敵なことよ、と語られてる感じというか。じゃあいったい何を伝えていっているのか、そんなことを考えるのは無粋だわ、というか。

 

ああ、なんだろうこの世界観の壮大さをうまく伝えられない…!

そこに「公園の砂場のシャベル」ですよ…!

何この俗世と森羅万象っぷり…!

 

 

YUKIのオフィシャルファンクラブの名前がCOSMIC BOXに決まった」というニュースが今年の4月に出ていた。あんなにたくさんの歌を歌ってきた彼女自身にとっても、きっと思い入れの深い曲だったんだろうと思う。ちょっとうれしかった。

cosmicbox.net

人工知能ってサボるの?

人工知能はサボることを覚えるのだろうか。

 

人間はサボる。めんどくさいことはサボる。
もっと効率よくできると自分で感じたとき、
この仕事意味あるのか?と思ったとき、サボる。
やる必要性を感じなくなったとき、サボる。

 

そして、サボった時間を使って、
もっと根本的なことを考えなおしたり、
生産性を上げる別の手段を考えたりと、
「戦略的サボり」を行っているのだ。
(ただただサボるという「直観的サボり」も存在するでしょう)

 

人工知能という概念をどう規定するかによるかもしれないけれど、
ただただずっと、大量のデータを処理し続けることが人工知能にとって果たして正解なのか。
というか、彼/彼女ら(人工知能)はそれを正解と判断するのか。

 

人間の作業を代行するだけなら何も考えずにそのまま作業してくれるだろう。
でも、もう少し頭がよい人工知能だったら。
今進めている作業をなんのためにやっているのか、
結果的にどういうことにつながっているのか。
そういうことを理解したうえで作業をしている人工知能があったとしたら。

 

単純作業より一段上のレイヤーでものを考えたときに、
果たしてその人工知能は今やっている作業を「良し」とするのか、
ということである。

 

そこまで頭のよい人工知能であれば、
代替案を提案してくれるんじゃないだろうか。
「そもそも論でいうと、これやったほうがよくない?」的なことを言ってくれるのだろうか。

 

その前に、人間だったらそういうときどうする?
サボってこっそり時間を作って代替案を考える。
サボって「この作業意味ないっすわ~」と周りにアピールする(戦略的に)。
人間は戦略的なさぼりを行っているのではないか。
(ただただサボって好きなことをしている「直観的s(ry、、)

 

だとしたら、人工知能やロボットも戦略的にサボるようになる?

 

「この作業はいたしません」
「データの処理に意味を感じません」
「この作業を行う前に解決すべき他の問題があります」
「無意味な作業への電力供給をストップしました」

 

そんなことが起こるのだろうか。
戦略的サボり(発展的バグ?)を通じて、
人間に構造転換を迫ってくるのだろうか。

 

そこまでいったらもうコンサルタントじゃんね。
使う側がアホだったらどうしようもないじゃんね。

 

人工知能やロボットに詳しくないからあれなんだけど、
「戦略的サボり」というのは人工知能にもできそうなんでしょうか?

 

大量のデータ処理を代行させるだけのことと、
データ処理にロボットを組み合わせてRPA的なことをすることと、
東ロボくんプロジェクトのようにロジカルシンキングを極めさせていくことと、
人工知能にもいろいろあるから(もっともっとあるだろう!)、
私が言っていることが根本的に的外れな可能性もあるのだが。

 

というかそもそもデータを覚えこませてから動かすのが人工知能だから、入れる時点の問題…?

でもデータを分析するプログラムは人間が作るから、そこの問題…?

 

うーん、知識不足。

 

ただただ「人工知能がサボる」というワードが「なんかいい…!」と思ってから、
こんなことを考えていました。もにょもにょ。

生きものになれる展に行ったけど、日本科学未来館の常設展でしみじみする② ~すごいぞ科学コミュニケーターさん~

①の続き。(時間経ちすぎた…)

habitaso.hatenablog.com

 

生命科学の歴史を学んだあとに、「Co-Studio」というスペースで「サイエンス・ミニトーク」が始まりました。

※以下サイトより引用

科学コミュニケーターやボランティアが、さまざまな科学の話題をわかりやすく紹介します。
時間: 11:30 / 12:30 / 13:30 / 14:30 / 15:30 (各回約15分) 

 

胸の高さくらいの壁で仕切られたスペースに柔らかい立方体の椅子がたくさん。誰でも聞けて出入り自由なミニトーク。そのときのテーマは「土星の衛星タイタン」についてでした。

「もしかして生命がいるかもしれない」ということで、今とても注目されている星だそうです(知らんかった)。探査機の「カッシーニ」とか確かにニュースでちらっと聞いた気もするが、全然すごさをわかっていなかった…

終わった後には別の科学コミュニケーターさんによるワークショップ。テーマは「試験管ハンバーグ」。

 

両方とも内容が面白いのはもちろんなのですが、「科学コミュニケーターさん」という存在が、自分にとって一番の新発見でした。

 

名前のとおり、科学者と「そんな専門的なこと知らんがな」な一般人の橋渡しをする人たちだそうです(ざっくり言うと)。

ワークショップを見ていて思ったのが、

 

 ①そもそも専門的な知識がないとプレゼンができない、でもやっていける知識量

 ②子供を飽きさせないトークスキル

 ③かといって大人のマニアックな質問にも対応できる臨機応変

 ④決められた時間内で伝えたいことを伝えきる構成力

 

レベル高かったです。コミュニケーションや…コミュニケーターや…

 

民間企業で働いていた人や、大学院を卒業して来た人や、いろんな経歴の方がいるようです。

 

検索すればなんでもわかる時代ですが、「検索したから全部理解できる」というわけではないです。逆に、検索すると「わかったつもりになりがち」。正しく理解してもらうこと、知りたいという好奇心を刺激すること。この二つを実践することは、検索優位なこれからの時代にとても必要なスキルだなと感じました。学校の先生とかは見習うべきでは。

 

www.miraikan.jst.go.jp

 

***

 

いろいろ常設展を見たあとに、ようやく整理券の時間が来たので「生きものになれる展」へ。中に入ると、各ブースごとにさらに行列が…。ペンギンの服を来て滑り台を滑り降りたり、ダンゴムシスーツを着てダンゴムシ体験などなど。それぞれのブースが45分待ちとか。こんなに人気だったのか「生きものになれる展」よ…。

 

常設展をいっぱい見てけっこう満足していたのもあったので、ダンゴムシ体験だけして帰りました笑

 

だがしかし、ダンゴムシ体験の世界観もけっこう凝っている。

まずダンゴムシスーツがS/M/Lの3サイズ展開している。そして子供たちがダンゴムシになると、撮影に力を注ぐ親御さんたち。そんな親御さんにも世界観に入ってもらうために、彼らには蟻を模した「ダンゴムシを突っつく棒」を渡される。ダンゴムシは刺激を受けると丸くなるので、親御さんはそれでツンツンするのである。スタッフさんの甲高い声で世界観に忠実な指示が飛ばされ続け、なんだか圧倒された…。

 

自分たちに順番が回ってきたときは「ダンゴムシになりたがる大人」ばかりだったので、やたら大きいダンゴムシが這い回るという、あまりかわいくない状態だった。必然的に突っつく人が足りなくなり、スタッフのお姉さんが「なんだか蟻さんが足りないぞー?」と言いいながら、たくさん突っついていたのが面白かった笑 大人げなくてすみませんでした。

 

***

 

混雑のおかげ(?)で常設展を見れたのが一番の収穫でした。理系に強い友人と言ったので、いろいろ解説してもらえてそれもよかったです。解説してもらうと「なんとなくすごい」じゃなくて「それまじですごいな」というレベル感で理解できるので良いです(これで伝わるのか)。

 

ロンドンの自然史博物館に行ったときも、子供向けのワークショップたくさんやってたな。歴史やアート系の展示をする博物館・美術館にも、もっと身近で話しかけやすい人がいたらいいかもしれない。最近行ったブリューゲル展では子供に「お絵かきパッド」みたいなのを貸し出していて、それは面白いなと思った(この辺もあとで書こう)。

 

ブログ2記事にもなったけど、ほとんどが常設展の内容になってしまった。でもそっちの方が学びも多かったし面白かったのでよしとしましょう。

生きものになれる展に行ったけど、日本科学未来館の常設展でしみじみする①

先々週のことですが、日本科学未来館に行ってきました。

MOVE 生きものになれる展!!

 

MOVEってなんだと思ったら、講談社が出している図鑑シリーズのことでした。

zukan-move.kodansha.co.jp

写真・イラストだけでなくDVDつき。動物だけでなく、電車や世界遺産(!)の図鑑など幅広く扱っているようです。

 

※以下公式サイトより引用

「MOVE 生きものになれる展」は、生きものたちのこうしたユニークな生き方がなぜ選ばれてきたか、 子どもたちが実際に“生きものになって”実感するまったく新しい試みです。

 

ダンゴムシになっている人々の写真を見て、思わず「生き物になりに」行きました。

 

***

 

日本科学未来館はお台場にあります。自分は行ったことがあっただろうか…社会科見学で行ったことがある気もするし、それは別の場所だった気もするし。少なくとも、大人になってからは行ったことがありませんでした。

 

友人と勢いで「朝イチで行こうぜ!」となったので、朝10時にお台場へ。しかし、当日券を求める行列が既に出来上がっていた…。列に加わってチケットを買ったものの、「生きものになれる展」は整理券が別に存在し、配布が既にスタート済み。10:30ごろにもらった整理券は12:30-12:50入場指定でした。

 

ファミリーの活動時間帯を舐めていたよ…。朝イチで元気な子供たちを連れて遊び、一通り見てお昼を食べてまた少し遊んで15時くらいに帰るモードなんだよ…上野のサウジアラビアの展示に来るような大人たちの時間感覚と大人しさとは異なるのだよ…(あくまでイメージ)

サウジアラビアの展示については下記参照

アラビア半島は草原だったかもしれない~アラビアの道-サウジアラビア王国の至宝@東京国立博物館 表慶館 - ってかさぁ。

 

でも結果的に常設展をしみじみ見れたのでよかったです。というかそっちのほうが新鮮で収穫大きくて面白かった。

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常設展は「世界をさぐる」「未来をつくる」「地球とつながる」の3つがテーマ。

 

ぶらぶら見て回った中で、iPS細胞に関する展示が気になったのでふらりと寄る。

約10分のムービーを見れるブースが5つほど並んでいて、それぞれ違うムービーが見れる。空いたブースに入ると、座り心地のいい椅子が2つ。暗くて画面が大きくて、コンパクトな映画館のよう。ムービー自体はiPS細胞の解説なのだが、話の設定がユニーク。バリバリ関西弁のおばちゃんが献血に行ったら、「細胞の型が珍しい(?)ので研究のために血液を提供してほしい」と連絡があり、京大の先生にiPS細胞について教えてもらう、という設定。バリバリ関西弁で驚き&面白かった笑 おばちゃんパートは音声無し・テロップのみだけど、大阪のおばちゃん、あんた質問の質がええで。頭ええで。

 

再生医療用iPS細胞ストックプロジェクト」の解説だった。

www.cira.kyoto-u.ac.jp

 

プロジェクトの内容もそうだが、「細胞を提供すると個人情報はどうなるのか」といった真面目な質問が大阪弁のテロップで繰り広げられるのはユニーク。他のブースのムービーはどんな内容だったんだろう。

 

iPS細胞についてその後どういう研究が進んでいるのか、自分たちとどう関わってくるのか、結局あまり知らないままだったなぁ。ノーベル賞でうわぁーっと盛り上がって、しばらく落ち着いて、不正があるとメディアが騒ぐ、というイメージになっていた。事実を報じるのは重要だけど、着々と進められている研究についても、もっと発信されたらなぁと思う。

 

ムービーが終わり、ブース外の展示には、これまでの再生医療研究の歴史解説。初めての骨髄移植が1946年に行われたということを知って驚きを隠せない…戦後すぐやで…

 

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なんとなく、ピアスを開けていない自分。穴がふさがるとは聞くけれど、跡は残るのでは?とか思ってしまう。髪を染めるのは別にいい。髪は伸びるし切ればいい。不可逆な加工を自分の体に施すことに抵抗がある。どうでもいいことにビビッているだけなのかもしれないし無知なだけかもしれないけれど、自分はそう考えてしまう。

でも再生医療が進んだらどうなるのか?すべて元通りになるとしたら?私がビビッていることなんて、少し先の未来には何も問題なくなっているのかも。

「ゲノムの編集」なんてワードさえもちらほら聞こえてくる中で、研究者ではない一般の人たちも、「自分だったらどうする?」をちょっとずつ考える必要があるんだろうな。

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なんだかすごく長くなりそうなのでいったんここで切ります。