ってかさぁ。

この接続詞の続きはたいてい役に立たないけど、でも言いたくなることを書きためるブログです。

素直に綺麗で美しい~ロマンティック・ロシア@Bunkamura ザ・ミュージアム

渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで「ロマンティック・ロシア」という展示を見てきました。

www.bunkamura.co.jp

 

19世紀後半のロシアの作家によるロシアの絵。

ロシアの美術はあまり馴染みがなかったのですが、HPトップの女性の絵「忘れえぬ女(ひと)」がメインデザインになっているポスターをたまたま見て、一目で「この展示は行きたい!」と思いました。

だってあまりにもロマンティックな目線じゃないですか。憂いと美しさと。

公式HPを見ると、他にも美しい風景画や肖像画があるというし、Twitterを見るとそんなに混んでなさそうだし。というわけで行くことに。

 

展示の構成は春夏秋冬の風景画から。

何と言ったらいいか、とにかく全部繊細で美しいんです。雲の形、霧深い森、冬の樹氷、なぜかキラキラ輝いているように見えてくる。油絵の凹凸のせいでそう見えるのかなと思ったけれど。広大な大地を活かした絵がとても美しかったです。

「北の大地だな」と感じたのが、日差しの角度。緯度が高い地域だから、太陽がそんなに高く上らない。そのせいか、どの風景画でも日差しが傾いている、斜めから差し込んでいるような雰囲気がするんですね。絵の中に明るい光は目立たないけど、その分「木漏れ日」「水面」「雪」「雲」「霧」といった間接的に光る(反射する?)部分がきれいに映し出されているようで。大きい絵もあるし壮大な風景の絵もあったんだけど「どーん!」という感じじゃなくて。湖畔や道端にたたずむような静けさを感じました。

 

人物画のコーナーでは、カップルがボートの上で語り合っている絵や、男性が女性に言い寄っているワンシーンを切り取った絵も。言い寄っている一方でちょっと嫌そうな女性っていう関係性が面白かったな。肖像画だけでなくて、誰かと誰かが一緒にいるような絵、子供の絵もありました。どれもわざとらしくないのがよかった。「こういうシーンです」という説明的な絵ではなくて、日常を切り取った感じ。

あとはロシアの街や港、都会の風景も。

 

ここまで来て思ったのが、「宗教画が一個もない!」ということ。だいたいどの展示でもマリアやイエスの絵が1コーナーを占めるけれど、今回は全然なかった。リアリティしかなかった。そこも新鮮でした。個人的には、生活や風景を切り取った今回の絵は前提知識なしで率直に楽しめるもので、とてもよい展示でした。もちろん宗教画もきれいだし表現方法が面白いし見どころはたくさんあるけど、聖書に基づいた人物設定の知識がないと理解しきれないこともあるしね。

今回は率直に「きれいだわ」「うつくしいね」と感想を言える展示でした。

 

だって「忘れえぬ女」なんて正直誰だか知らないけど、思わず見入っちゃうよ。

 

展示を見終わってお土産コーナー。マトリョーシカがたくさん。チェブラーシカも限定商品があったみたい。

 

チケットの半券を持ってミュージアムすぐそばのカフェ「ドゥ マゴ パリ」へ。

ドゥ マゴ パリ | レストラン&ショップ | Bunkamura

 

今回の展示とコラボした「モスコミュール」があったので、半券を見せて100円引きで堪能しました。ホットが選べたので初めてホットモスコミュールにチャレンジ。寒い身体にじんわりとジンジャーが染み入りました。あとからウォッカがじわじわと。そんなにアルコールな感じがしなくて飲みやすかったです。

 

モスコミュールは「モスクワの騾馬(ラバ)」という意味だそう。ラバに蹴飛ばされたように効いてくる酒らしい。本場のモスクワではもっとウォッカがきついんだろうなぁ。

 

オランダの寓意的な絵や抽象的で不思議な絵を見ることがこのところ多かったので、純粋にきれいな絵を久々に堪能しました。これで日曜日で混雑していないのが驚き!穴場なのでぜひおすすめします。

朝起きる、目覚ましを止める、カーテンを開ける、窓を開ける、雨戸を開ける、窓を閉める、電気をつける、顔を洗う、顔を拭く、保湿クリームを塗る、TVをつける、お湯を沸かす、ベーコンを焼く、炬燵をつける、ベーコンを食べる、薬を飲む、天気予報を見る、歯を磨く、皿を洗う、水筒にお湯を入れる、水を入れる、トイレに行く、服を選ぶ、着替える、鏡を見る、メイクをする、炬燵を切る、TVを消す、戸締りする、サボテンを窓辺に移動する、靴を選ぶ、鏡を見る、電気を消す、ドアを開ける、ドアを閉める、鍵をかける。

ガチャガチャ図鑑①モア・メロン ~シリーズ「モアイ・ア・ラ・モード」より~

メロン、さくらんぼ、プリン、バナナ、リンゴ、バニラアイス、イチゴアイスの全7種。全て集めるとプリン・ア・ラ・モードならぬ「モアイ・ア・ラ・モード」ができあがる。1個200円。

LPが凝っている。「モアイだって、かわいくなりたい」という一文から始まるあらすじ(丁寧に "Ā la Suzi" と補足されている、ア・ラ・モード "Ā la mode" の世界を崩さない姿勢) 。あらすじを読むと、なぜか神様が現れる。なぜかその神様が、モアイの「かわいくなりたい」という願いを叶えてしまう。そしてまさかの「あら不思議!~(中略)~モアイたちはそれぞれの姿を見て、モアカワイイ~と大はしゃぎ。」。なぜア・ラ・モードになったのか。モアカワイイとは何なのか。あらすじの最後は「かわいいって、不思議ですね。」である。全てが不思議でしかない。

https://www.takaratomy-arts.co.jp/…/pandano…/moai/index.html

 

モアイらしい横一文字に結ばれた口元。彫りの深い目元。すっと通った鼻筋。他のア・ラ・モード達より比較的高さのあるモア・メロンは、よりモアイらしい縦長のフォルムに。ただ、後ろから見たらメロン。メロンの特徴である網目模様もきっちり再現。少しかすれ気味なところもよくできている。側面の果肉部分も黄緑色から黄色の見事なグラデーション。でも横から見るとモアイである。

ロンドンの大英博物館にはモアイ像がある。以前そこで実物を見たが、かなりの大きさだった。ガラスケースの中ではなく立った状態で展示されていたため、360°ぐるっと見ることができた。モアイの背中には丸い模様が描いてあった。あれはなんだったのだろうか。ちなみに、イースター島から大英博物館へモアイ像の返還要請が出ているようだ。未だに謎が多いモアイ像、どこへ運ばれていくのか。

イースター島では島内の部族抗争で「相手の守り神であるモアイを倒す」ということが頻発したそうで、かなりの数が倒されてしまったらしい(18世紀頃)。モアイを作るために木材を大量に消費し、人口爆発も相まって森林伐採などにもつながり、絶海の孤島は環境破壊が進み文明が廃れていったとのこと(諸説あり)。モアイから見るイースター島、奥が深い。いまだに作り方も作られた目的もよくわかっていないから、なおさら不思議。

ちなみに目玉があるモアイもあったそうだ。ただちょっと顔が怖くなるので、今の「ちょっと彫りが深いですね」というくらいの方がミステリアスでちょうどいい。メロンにしたってちょうどいい。

愚痴マウンティング現象

愚痴というのは、がっつりと聞いてもらわなくても成り立つのだと、最近ようやく気づいた。

 

たとえば、誰かが「昨日帰りが遅くて眠いよ」と言う。

すると別の人が「俺は終電で帰ったよ」とかぶせる。

そしてもう一人が「俺、徹夜。」とかぶせる。

 

私はこれを「愚痴マウンティング現象」と呼んでいる。

「自分だってきついぞ、俺も大変だぞ」と言いたくなることです。

 

愚痴は、誰かが聞いてあげるもので。「あんたは頑張ってるよ、えらいよ」と褒めてあげて、愚痴っているその人を励ましてあげる、という一連の流れのもので。

…と自分は考えていた。

 

「聞き手は救済することが任務だ」と思い込んでいた私にとって、「愚痴マウンティング現象」は苦手なものだった。愚痴った人が救われないじゃないか。なんなら余計なストレスも溜まりやしないか。そうだ、自分はこのマウンティング現象は起こさんぞ、と思い立ったのでした。

 

友人、知人、後輩から何かを愚痴られたとき、うんうんと耳を傾け、「そうだ、お前は頑張っているよ」と褒め、状況改善のために何ができるかを一緒に考え。そうして私に愚痴った人々はすっきりした面持ちで去っていった。気がする。

不毛な「愚痴マウンティング現象」を起こさなかった私は偉いぞと思いつつ、自分もいいことをしたような気でいた。

 

だが最近気づいた。自分が愚痴る相手がいない。

愚痴ると相手が逆に愚痴ってくる。「愚痴マウンティング現象」を自分で断ち切ることを信条としている私は、そこで愚痴をストップして聞き手側に回る。すると「いつも悩み相談に乗ってくれるいいひと」と思われるようになる。そんなイメージができてしまうと、どうやって愚痴の口火を切るのかよくわからなくなってしまったのだ。

 

わざわざ愚痴を言うという行為は気持ちのいいものではない。相手にとってつまらない話だし、嫌なことをただまくしたてる話だ。一体みんなどうやって愚痴っているんだろう。誰にどうやってどんなタイミングでそういう話をふっかけているんだろう。

 

そこで「愚痴マウンティング現象」である。

 

この現象では、ある小言から、全員がちょっとずつ愚痴を言うことができるのだ。そしてお互いに「俺だって大変なんだぞ」と言いつつ、「お前も大変なんだな」という共感、最終的に「お互いがんばるか」「いつでも話聞くぜ」という平和的な着地点に落ち着くのだ。酒が入っていりゃあ、他人の悪口なんてよい酒の肴にもなる(そこそこにしたほうがいいけど)。愚痴マウンティング現象とは、全員がちょっとずつ愚痴を吐き出すチャンスだったのだ。

 

そして、愚痴った当人は、翌日そんなに細かいことを覚えていないものである。「お悩み解決」なんて高い次元にはいかないまでも、吐き出すだけでだいぶスッキリするものだ。そうやってみんなガス抜きしているのだ、とようやく気づいたのです。

 

愚痴=悩みと思い込んでいた説。

 

愚痴が「悩み相談」にフェーズが上がった時点で、聞き手側はけっこう体力を使う。自分自身の昔の苦い思い出がよみがえってきたり、そもそも愚痴ってる当人の問題点が大きいこともあって気を遣ったり、言葉選びも慎重になるものだ。

 

自分は相手の愚痴を聞くと「悩み相談」に勝手にランクアップしてしまう癖があって、相手側のなんてことのない愚痴に対して精神的エネルギーを吸い取られてしまうことが多々ある。なんなら、昔の苦い記憶を思い出して心が痛んだり、「偉そうにアドバイスしている自分も実はそんなに有能でもないし」という自己卑下・自己矛盾を感じてしまったり、ダメージが実は大きい。相手の気持ちに引っ張られやすいのだ、そもそも。負っているダメージのわりに、相手は「愚痴」なのでそんな深い気持ちで話していない。そもそもスタンスがずれているのである。

 

私は優しすぎるのかもしれない。

敏感すぎるのかもしれない。

もっといい加減に聞き流すとか、相手の反応を感じ取りすぎないとか、そういうふうにしないと、心がもたないぞ。

あつい②「厚い」について

子供のころに、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』を読みました。

https://www.amazon.co.jp/%E3%81%AF%E3%81%A6%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%84%E7%89%A9%E8%AA%9E-%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%87%E3%81%AE%E5%82%91%E4%BD%9C%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%B8%E3%83%BC-%E3%83%9F%E3%83%92%E3%83%A3%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%87/dp/4001109816

amazonのせいかリンクが超長いw

 

ネバーエンディング・ストーリー』として映画化もされた名作です。

確か親戚からもらった本だと思いますが、当時小学校低学年の自分には長いやら、難しいやらで途中で断念した記憶。だって「虚無」とか出てくるんですよ。小学生には難しかろうて。親に聞いた気がするもん、「お母さん、虚無ってなぁに」て。お母さんも困るて。薄ぼんやりした記憶によると「何もないってことよ」と言われた気がします。辞書を自分で引いた気もします。よく覚えてないです。幼い頭なりに、黄土色のなんにもない空間みたいなものをイメージしたもんでした。

 

確かその時は読破できず、小学校高学年か、はたまたもっと後か、どうにかこうにか読み切った気がします。でも正直あんまり覚えていない。何度かチャレンジするものだから、最初の方だけ何度も読んでいるので、頭の方はなんとなく覚えてるっていう笑

 

でもやっぱり一番印象的だったのは、本の装丁でした。

 

あの綺麗で、でもちょっとおどろおどろしいえんじ色。しかも二匹の蛇が互いの尾を噛み合って円を描いている。本の角度を変えると、えんじ色も変わって見える。蛇の色が移り変わる。表紙だけでも楽しんだ思い出。

しかも本の中に、今自分が読んでいるこの本自体が出てくるっていう驚き。本の中に登場する男の子が読んでいる本が、自分が読んでる本と同じなんですよ。その男の子が本の中に入り込んでしまうっていう、自分と、男の子と、自分が今読んでいる本と、男の子が読んでいる本と、なんていうか「鏡合わせで延々につながる世界」に迷い込む感じになるんですね。

 

ぱっと本を開いてぱらぱらめくると、字の色が二種類ある。それも斬新でした。えんじ色の文字と、緑の文字。世界軸が違うよ、ということがわかりやすいようにしているんだと思ったけれど、それだけでワクワク感がすごかった。そんな本に出会ったことなかった。

 

いろいろな種族が出てきて、特徴が事細かに書いてあるからイメージがどんどん広がる。挿絵も章ごとにあるくらいだから、ほとんどイメージまかせ。大人が読んでも読みごたえがあると思います。

 

最近読み直す機会があったのですが、読み切れませんでした。体調が万全でなかったせいか、集中力が持たなかった…くやしい。またリベンジします。

 

ミヒャエル・エンデの『モモ』も名作です。大人になったらぜひ読んでほしい、「時間どろぼう」の話。確かブログに書いた。

habitaso.hatenablog.com

habitaso.hatenablog.com

 

今振り返ったら2記事も書いてたw よほどよかったのかな。

 

***

 

先日「熱い」思い出を書いてみましたが、同音異義語シリーズ(?)でいってみたいと思います。さて、いつまで持つか。

東京都庭園美術館②旧朝香宮邸の美しさ、うらやましさ

東京都庭園美術館に先日行きましたが、建物自体がとても美しくて見惚れてしまって、展示と建物とで感動が二倍になったようなお得な気分になりました。

 

建物の何がそんなによかったかと。詳細はHP見てくれればよいのだが。

www.teien-art-museum.ne.jp

ぜひ実際に足を運んでいただきたいです。

HPにあるように、建物自体ができたのは昭和8年(1933年)。フランス人の芸術家・建築家、そして宮内庁の技師たちが創り上げた、アール・デコ様式の美しい洋館です。

 

他にも東京には、三菱財閥を興した岩崎弥太郎のお屋敷である旧岩崎邸など、モダンなお屋敷がそこかしこに残っています。

文京区 旧岩崎邸庭園

 

岩崎邸も行ったことがあります。ゴージャスで、荘厳で、明治にこんな建物と庭園を造ったのかとびっくりしたものです。重厚ってこういうことかーっていう。

 

庭園美術館の旧朝香宮邸は、皇族のお屋敷。時代も昭和で少し新しいこともあり、岩崎邸とは印象が違いました。

 

岩崎邸はなんというか、「どうだ、この屋敷はすごいだろう!」と見せつける感じがあるんですね。「おお、確かにすごいっす、、、」と言わざるを得ないというか。素敵なんだけど、威圧感もあるというか(個人の見解です)。

 

朝香宮邸は、それとは違う。「自分で本当に住みたいおうちを、こだわってこだわりぬいて創りました」という感じ。そこで暮らすことになる自分自身の居心地のよさや、建物自体の美しさに自分で嬉しくなりそうな感じというか。訪れた人、建物を見る人ではなくて、住む人自身を第一に考えているんだ、という印象を受けます。

 

建物の設計に朝香宮自身がどこまで関わっていたのかはわからないけれど、「この家で暮らすのだから、暮らしたい家をこだわりたい」という気持ちが伝わりました。

 

なんでそこまで感じたか、というと。行けばわかる←

と言ったらおしまいなので、いくつか思い出しながら。

www.teien-art-museum.ne.jp

 

と言っても、HPにかなり詳細に各部屋の特徴が書いてあった!

各部屋の写真をぱらぱらと見てもらうだけでもわかるんだけど、照明が各部屋ごとに形が違うんですね。そのすべてがおしゃれ。素敵。美しい。食堂の照明はパイナップルとザクロがモチーフになっていたりと、部屋ごとの特色を出しているのがまた素敵。

 

通気口として天井に透かし彫りのような穴が開いているのだが、各部屋の照明デザインと合わせて穴のデザインも素敵になっていてこれまた美しい。天井見るだけでかなり感動します笑

 

部屋ごとに壁紙も、照明も、床も、かなり違っているのに、ちぐはぐな感じはしないのはなぜなのだろう。レリーフで飾られた部屋もあれば、モダンなデザインの壁紙の部屋もあったり、絵で飾られた部屋もあり。どの部屋に行っても「うわぁ…!」と思ってしまうのです。

 

そして第一階段が一番テンション上がります。

大理石の美しさ、段々になるレリーフの美しさ、そして階段を登り切ったところにある照明柱の美しさ(もはや美しさしか言ってない、語彙力w)。ドレス着て歩いてみたくなりますね。舞踏会です、みたいな体験したくなります。

 

暖房器具のラジエーターカバーというものがあって、暖炉の前の柵など各部屋にあるのですが、それも全部装飾が施されていて。もう、手抜きがない。こだわれるところは全部こだわっちゃってるもの。

 

そして2階の書斎。建物の角部屋にあたることを活かして、家具の配置や照明を工夫していることもあり、八角形の部屋みたいに感じるんです。そこに配された机も素敵。絨毯が八角形になっていて、均整がとれた美しい部屋ってこれかな、っていう。こういうお部屋で読書したい、お手紙書きたい。

 

書斎の隣に書庫が併設されていて、その部屋から見える庭園の緑がまた美しい。この建物からは窓から緑の木々、芝生が目に入って、都会であることを忘れてしまいそう。

 

もう挙げればきりがないのですが、とにかく美しいお屋敷でした。庭園も広くて、芝生広場だけでなく、日本庭園もありました。外から見る建物自体もまた、いい。

 

ここまで「美しい」を何回言ってるんだって感じですが、建物にこんなに感動したのは初めてだったかもしれない。押しつけがましくない感じ、私以外の方にも伝わるだろうか。本当にここに人が住んでいたのか、と思うような豪華さですが、「暮らしのための家です」という感じもするんだよね。

 

HPの写真はごく一部でしかないので、ぜひ一度行ってみてください。

天井から壁から床から隅々まで、きっと溜息しちゃうわ。

アーティストの在り方~ブラジル先住民の椅子 野生動物と想像力@東京都庭園美術館

東京都庭園美術館で開催されている展示を見てきました。

www.teien-art-museum.ne.jp

 

駅貼りのポスターで見かけて気になったので。本当は上野でやっているエッシャー展(http://www.escher.jp/)に行きたかったけれど、ものすごく混雑しているようなので、前から気になっていた庭園美術館に行くことに。

 

初めて行ったけれど、場所も展示も素晴らしかったです。

書いているうちに、展示で受けた感想と建物から受けた感想がごちゃごちゃになりそうなので、まず展示自体について書きます笑

 

まず概要をサイトから。

南米大陸、ブラジル北部のアマゾン河やシングー川流域で暮らす先住民の人びと。彼らの作る一木造りの椅子は、動物のフォルムや機能的なフォルムに独特な幾何学模様が施されており、ユニークな造形作品として捉えることができます。元々、先住民にとっての椅子は、日常生活の中で使用したり、シャーマンによる儀式や結婚式等の特別な機会に用いるなど、彼らの生活や伝統、独自の神話と色濃く結びついており、コミュニティ内の文化的・社会的なシンボルでもありました。それが今日、コミュニティの外との繋がりから刺激を受けて、自らのアイデンティティを自然を捉える眼に求め、用途や伝統に縛られないより多様かつ自由な表現が生まれてきています。

東京都庭園美術館|ブラジル先住民の椅子 野生動物と想像力|2018年6月30日(土)-9月17日(月・祝)

 

一本の木から削り出される椅子。動物をモチーフに様々な模様が施された椅子が、館内のそこかしこに展示されていました。

 

ヒョウや鳥、猿、バク、いろんな動物がモチーフになっていて、それぞれ個性があって愛らしかったです。猿はしっぽがくるんと丸まっていたり、バクは長い鼻にモダンな模様が描かれていたり。目がキラッとするなと思ったら貝を埋め込んでいるものもありました。凛々しいヒョウと思ったらぺろっと舌が出ていたり。一本の木から5個くらいの椅子を作るそうですが(サイズにもよるけど)、どの椅子もニスを塗ったかのようにきれいに脂がのって(?)いて、美しかったです。模様が目立ちすぎることもなく、動物らしさとアートらしさのバランスが素敵でした。

 

ただ、見ていて違和感があったのが、作品説明。美術館に行くと、たいてい作品の脇に作品名など情報をまとめた小さいボードがありますね。タイトルはもちろん、作者の名前、制作年代、作品の材料。有名作品であれば、その作品にまつわるエピソードもまとめてある。「美術館が混むのはみんながこれをじっくり読んでいるからでは?」と思ったこともあるくらい。作品には「補足情報」がセットで、それを見て「なるほど、これはこういう作品なのね」と情報をインプットしながら鑑賞することが多いです。

 

今回の椅子。作品の横にあった補足情報は、以下3点のみ。

・モチーフになった動物

・制作した先住民族の名前

・制作者名

 

ほぼ作品情報がない。

しかも「作者不詳」なんてのも多い。

 

先住民族の名前は、入場の際にもらうパンフレットに解説が載っていたので、それを読んで、ふむふむと。今回は17の先住民の作品が展示されていたのですが、それぞれの先住民ごとに作風が違うようで、それについてパンフレットに細かく記載されていました。

 

動物は見たらわかるものが多かったけれど、作品名がないので、ある意味それ自体を見て楽しむことができました。「なんだこれ?」って思ったのは「エイ」くらい笑

 

特に困ったのが、制作年代がない。いつ作ったんだろうと思いました。古いのか、新しいのかよくわからない。そんなに傷んでいないものも多いし。古ければ「昔からこんなにアーティスティックで素敵だったのね」とか、「よくこんなのが残っていたね」とかの感想を持つし、新しければ「今もこんなモダンなものをジャングルで創っているのか」みたいな感想を持つし、「いつ」作られたのかってけっこう意識するよね。

 

それがないので、古いのか、新しいのか、もやもやしたまま展示を見続けました。モノじたいは面白いし素敵だな、とは思うんだけど。

 

展示は本館→新館と移動して後半へ。新館には映像作品がありました。実際に現地の先住民が椅子を作っているところを取材した映像17分。先住民に東京都庭園美術館の館長 樋田豊次郎さんがインタビューする取材映像25分。17分のほうだけ見て終わりにしようかな、と思っていたけど、想像以上に面白くて見入ってしまいました。

 

森に入っていって、木を切り倒す。その場で木を5つくらいに分けて、椅子の大枠を作る(ジャングルの中で!)。持ち帰れるサイズ、重さになったら村に持ち帰って、細かい仕上げ作業へ。彼らはそれぞれがアーティストで、子供のころから親兄弟が作っているのを見ながら学んで、個々人の感性で椅子を作っていく。それが現代も続いている。

 

ここまで、見て、ああ、だから制作年代がないのかと思いました。今も続いている作品なのだから。

 

そのまま25分のインタビュー映像へ。ここが激熱だった。

メイナクという先住民の兄弟に、館長がインタビューしている映像。ここで、すごく印象的だった言葉が、

「私たちは、自分たちの作っている椅子を『民芸品』と呼ぶのをやめたのです。『木彫芸術品』と呼んでいます。」

 

アーティストなのです、彼らは。先住民特有の珍しさとか、希少性を売りに出すのではなく、自分たちが一つずつ手作りで、自分たちのセンスで作り続けている椅子を「作品」として世に出したい、認められたい。そういう目的意識、プライドを感じました。

 

サンパウロビエンナーレという国際的なアートの展示会にも彼らの椅子は出展していて、それを機に取材も多く増えたと。「先住民」という枠組みで椅子を作っているのではなく、先住民族それぞれで創り方も考え方も違うし、それぞれの暮らし方も違う。自分たちの存在自体をアピールするきっかけにもなったと話していた。

 

そうして外の人から作品を買いたいと言われたり注目されたりすることを通して、彼らは「先住民が自らの言葉で自らの芸術を語る必要がある」と感じる。自分たちは文字の文化がないから、口承で代々作り方を継承してきた。インタビューに応えていたメイナクの兄弟はポルトガル語を学び、外に情報を発信する。一方で、先住民族が作っている椅子それぞれについて、何をモチーフに誰がいつ作ったのか、何に使うものなのか(日常品か祭事用かなど)、材料の木はどのように選ぶのか、染料はどうしているのか、作り方や作品自体について記録を残すことにしたと言う。今までは残っていなかったから。

 

インタビューの中で「もし白人に『こういうモチーフで作ってくれ』と依頼をされたら、自分たちのアートのこだわりがあったとしても、注文を受ける?」という質問があった。ここでメイナクの兄弟は「喜んで受けると思う。新しいことにチャレンジできるから。自分たちの技術の幅が広がっていくから」と言っていて、すごく意外だった。伝統を守るという保守的な思考ではなく、技術を高めていくためにチャレンジをいとわないし、それを楽しんでいる。

 

彼らにとって外貨獲得手段でもあるアートとしての椅子の販売。まだ安価に扱われていると彼らは言う。「自らが自己評価を高めていく必要がある」と言う。

 

ただの民芸品やら伝統やら言っている人たちではない。彼らはアーティストであり、プロデューサーであり、自分たちの先住民としてのアイデンティティを守りながら世に発信していく、一人ひとりがその目的意識のもとに常にチャレンジを続けているのだ。

 

美術館や博物館にはよく行くけれど、「アーティストの在り方」というものに心をこんなに動かされたのは初めてでした。今回の展示は、あのインタビュー映像があってこその展示だと思います。

 

伝えたいものが明確な人というのは、こんなに強いのか、と感じました。

 

9月までやっているので、是非皆さん足を運んでください。

そんなに混んでないし、建物自体も美しくて素敵だし、格式ばってないし。

とてもおすすめです。ほんとに。