design_anatomyっていうURLがかっこいい
六本木でやっている「デザインの解剖展」に行ってきました。
13時くらいだったと思うけれど、いやぁ混んでました。チケット購入列できてたし、人が多くてあまりじっくりは見れず…
「解剖」がテーマなので、とても詳細な説明文。チョコレートの歴史から包装紙の成分までびっしり。時間が無い人用に「ここだけ見れば大丈夫!」という親切なメッセージもありました笑
時間が許せば全部じっくり見たかったけど、ちょっと人が多くて断念。子供もいっぱいいたり、普段アートとかはそんなに見なさそうな(と言ったら失礼か)大学生カップルみたいな感じの若い人もいっぱいいました。そのためいわゆる「美術館」よりもいい意味でざわざわ感。全体をさらーっと見た。
「きのこの山」のオブジェとかフォトスポットが若い人にわかりやすく刺さったね。あの写真の拡散だけでけっこうな集客になってるんじゃないでしょうか。
にしても「写ルンです」の解剖とか、リカちゃん人形の頭とか、観点が面白かった。よくよく見たことがなかったものを深く知ることができてよかったです。写ルンですの構造は、リサイクルされることを考えて分解・組み立てがしやすいようにY軸・Z軸で垂直な構造で云々、というのがとても合理的で感動。
そもそもの商品開発コンセプト、ロゴ、成分、包装のコンセプト、などなどどんどん内側へ迫っていく。順番に展示してある通りに見ていくと構造がわかるようになっていて、いい展示だなと思いました。ちょっと混雑してきて、順番どおりに見れなくて混乱してる人がちょこちょこいたのが残念。
「きのこの山」のロゴの「の」のサイズがちょっと違う!とかのこだわりが知れてよかった。明治ブルガリアヨーグルトのメロディの工夫とか。作った人もきっとうれしいだろうな。
とりあえずmeijiのPRにめちゃくちゃなっているw 「きのこの山」買って帰った人多いんじゃないかな笑 グリコのポッキーの日が迫っているのでいいタイミングで対抗要素できたかもね。
会場から出たらもっと行列ができていてびっくりしました…この前は上野の国立博物館に行ったけれど、明らかな年齢層の差にもびっくり笑
でも自分は上野の雰囲気のほうがアカデミックで好きかなー。なんとなく話題性が強い気がして、六本木は。
次はラスコー展に行きたいぞう。
諭吉が瞬間移動した
買い物をするときの金銭感覚が変わってきた。前よりも欲しいものを「すとん」と買うようになったというか。あんまり逡巡しなくなった。働くようになってある程度余裕が出てきたのもあるとは思うけれど、こんなふうに自分がなるなんて、ちょっと思っていなかったなぁ。
冬物のコートが欲しくなって買い物へ。思い切って買った。今までひとつの服にかけた金額で、一番高い買い物だった。「アプリのオリガミを使うと割引です」と言われて即DL。(そういうところはちゃっかりしている)
アプリにカードの情報を登録したら、Bluetoothをオンにするだけで決済が終わる。けっこうな金額使った気がしたけど、暗証番号もサインもなく「ぴろぴろりーん」みたいな音がしてお金が出て行った。領収書はメールで届く。
お金を使う行為がどんどんあっけなくなっていく。それに適応していく自分が怖い。
でもそういう「見えないお金」が世の中のスタンダードになっていくのかしら。結局お金って概念でしかないから、もともとの姿に戻っているのかもしれないね。
500円玉握りしめて『小学一年生』を買いに走ったあの頃はもう遥か彼方なのよ。
…と思って調べたら今って500円玉だけじゃ買えないの?
あの頃はいくらで買ってたっけな。
伊藤計劃の『ハーモニー』なんていうエッジの効いた近未来SF読んじゃってるから、見えないものについて余計考えちゃうぜ。
写真でひとことっていうか長文
先日「しみじみしすぎて雨が恋しい」と書いたら翌々日くらいに雨が降った。こんなこともあるのね。
***
久々に何もない一日を過ごしたけれど、ここのところ休日に外出ばかりしていたから何かしないといけない気がして走りに行った。最近は無為に宇多田のアルバムをヘビロテしていて、今日も聴きながら走る(全くランニング向きじゃない選曲)。
少し寒いくらいの夕方に走っていたら夕焼けが綺麗。切り絵のように公園の木立が黒々としていて、放課後の帰り路とか高校時代のランニングとか思い出しては、地元はもっと寒かったよなーと思い出に耽る。
思わず写真を撮ったけれど、裸眼の風景よりも明らかに鮮明な写真をiPhone7が提供してきてなんだか複雑な気持ち。乱視がかった生の目では、今日の細い三日月は爪切りで切り落とした爪のカスがごしゃごしゃと混ざったようにガサガサしているのに、写真ではくっきり弧を描いていて、宵の明星まで写していらっしゃる。スマホを見てから空をみて、本当にあるなぁと金星を確認する。
***
昨日は結局飲み仲間と深夜まで飲んでいて、相変わらずみんな頭がいいなぁとびっくりした。「俺たちは最後の時代の最初の世代なんだ」「お前はメンヘラ女のサービスエリアだ」うんぬんかんぬん。深夜一時に劇的に辛いハラペーニョを食べながら無駄に複雑な話がぐらぐらと展開されていって辛い辛い。わしゃあ凡人だ。おい、誰かあいつをプロデュースしてやってくれ。あー面白かった。
***
スマホの液晶ディスプレイの中の風景が現実なのはわかるけれど、私が毎日認識している世界は乱視がかったごしゃごしゃした世界であって、結局そこは思い出補正のような、理想的な補正をしながら風景を見ているのね、と無駄に厭世的な気持ちになりながら走っていた。「リア充」ということばもあまり聞かなくなったけど、そうなると妄想だって「リア充」になってしまうのではないだろうか。
別に落ち込んでいるとか暗い気持ちとかそういうわけではなく、妙に虚無的な気持ちになることがあるじゃないのん。ガラケー全盛期に作ったブログにも同じようなうつろなことを書いていたことを思い出して、穴があったら入りたい気持ち。10年近く経っても同じことをしている。
でも虚無感の穴にこうした文字をコロコロと溜めていって穴をふさいで満足しているならそれはそれでいいんじゃないかと。
いたってご機嫌である。
たらしこんで、モアレ
友人に誘われてデザインウィークに行ってきた。なんとなく響きで面白そう~くらいのノリで行ったら、思った以上に大規模でびっくりした笑
有名人の展示というよりも、美大生の展示や大企業のデザインを活かした新技術、若手アーティストの作品販売・展示、などなど。雑多にいろいろ楽しめてよかった。子供が遊べる作品とかもあって、多くのファミリーが楽しんでた。東京の子供たちはこういうところで感性を磨いていくのかしら、とか思った。田舎とは違うねぇ。FUJIFILMは独自の技術を実験調に展示していてわくわくした。大企業はこういう場を積極的に活用すべきだと思う。
***
美術館と今回のような展示会で明らかに違うなぁと思ったのは、出し元が一つではない、ということだった。まぁ当たり前っちゃ当たり前なんだけれど、どの団体も「うちのことを覚えていってね」という感じが強かった。あんなにたくさんの団体が展示をしていて、美大生の展示は「投票」まであるものだから、「自分たちを埋もれさせないで」感が強いというか。
作品のコンセプトはどっかに書いてあればいいのであまり話しかけてほしくない私。作品のコンセプトを説明した上に、まったく同じことが書いてあるポストカードを渡してくる出展者。「シェアしてください!」というコメント。なんだかなーとも感じてしまった。
***
主催者と参加者(私)のモチベーションの差が大きかったのだ。まぁ私のようにイベントの概要を知らずになんとなく来ちゃった人がそもそも合ってないのかもしれないけれど、そこの不一致はなにか「そわそわ」させるものがある。作品を楽しむのか、何か別の力が加わってるのか、モチベーションのギャップがあればあるほど「鑑賞」が純粋ではなくなるのかもしれない。
そもそもの予習不足が問題ですが笑
作品自体は面白かった。私の出会い方の問題ね。
パターンのズレから出る縞模様を「モアレ」と言うそうだけれど、今日の私はモアレってた。ということにしておこう。
***
宇多田ヒカルの『Fantôme』をようやく買って聴いていたけれど、しみじみしすぎて雨が恋しい笑
朝昼晩とがんばる 私たちのエスケープ
肯定的正論があるために
「正論」というのは道徳的(倫理的)に正しい、という意味のはずなのだけれど、「正論を振りかざす」とか「正論だけどしかし」とか、否定的な表現の中でしか使われないように思います。「そもそもそんなの無理やんけ」というものが「正論」として扱われている。でも「正論」は実現できたらもちろんいいはずで、厄介な現実を無視してでも実現できたらいいものなわけです。
「真面目」という言葉もあるけれど、「細かいことをちゃんとやる人」と「真面目な人」は違うのだと思った。私は前者。世の正論とされるものを、義務感や他人からの評価が気になるという理由で実行(しようと)するのではなく、「そうするのが当たり前であって自分がやりたいからそうする」ということができる人、それが「真面目な人」なんだと思いました。本当に真面目な人は、自分のことを「真面目」だとは言わないのだ。そう、行動のスタート地点・源泉が違うのです。
***
禅宗の開祖とされる達磨の言葉に、こういうことばがあって。
「直指人心 見性成仏」
(まっすぐに自分の心を見つめよ。仏になろうとするのではなく、
本来自分に備わっている仏性に目覚めよ)
はー、そういうことか、とさっき気づきました。
私の中に眠っている仏性よ、出てこい。
「俺らに言わせりゃおまえら出がらし!」
「モノは言いよう」も技術です
「文章を書く」ことは教えられても、「話す」スキルがなかなか教えられないなぁと。最近模索中。
「話す」という行為は客観的に見れないからです。
「自分が話している声」と「他人に聞かれている声」は違う、ということすらも、普段意識しにくい。留守電とか動画とか聞けばわかるけど、わざわざそんな機会、タレントじゃあるまいし。
「話す」という行為はもろに自己表現なので、ある程度の「プライド」みたいなものがあると思うんだよね。自分が言いたいことを「こうすれば伝わるだろう」と自分なりに考えて発信しているわけだから、否定されるのはつらいし、自分のやり方を曲げにくい。何か指摘されたとしても、「でも自分は自分なりに根拠を持ってやっているんだ」って無意識下に信じていると思うんだよね。話す、という行為に関しては。
ただ、それは自分が思っている「イメージ」なわけで、他人から見える「話している私」というのとは全然かけ離れているわけで。
まずそこの認識をすることからなのかなーと思いました。とりあえず録画とか録音とかやってみよう。
***
ほぼ日のトップページには糸井さんのエッセイ「今日のダーリン」が毎日更新されるのですが、今日のは格別にいいなぁ。バックナンバーとか見れないので、今日のうちにみなさんぜひ御覧ください。明日のAM11時まで見れます(平日は11時に更新されるので)。
シンプルなことばでシンプルなことを言う、というのは、誰にでもできそうでめちゃくちゃ難しいことよ。たいてい、複雑な熟語を使ったりやたらと長い文章を書いたりすると、それだけで「いいこと言ってるぽい」感じするから。言葉をそぎ落とすというのは難しい。
「人から魔法に見えるようなことは、魔法じゃなくて技術さ。」
私の話術(?)も技術です。
私の夢にはだいたい電車が出てくる
久々に意味不明な夢を見た。
電車で海外旅行をする夢とか、中国でスパイ活動をする夢とか、変な夢を一時期しょっちゅう見ていたのですが、最近はそんなに見ていませんでした。が、見ました。つい最近。
***
東北地方のどこかさびれた駅のホーム。人がたくさんいる。観光客かしら。ホームから離れて、原っぱをまっすぐに伸びていく線路を見ている。そこをものすごく大きくて長い電車が通っていく。ただし、貨物。そう貨物列車。貨物ってだいたいコンテナを積んで走っているけど、なぜかトラックの荷台のように中身がむき出し。工事現場の足場とかやたら長い鉄骨とか土木的なサムシングがものすごいサイズ感でのっかって、ごうごうと通り過ぎていく。錆ついて全体的に使い古した感じ。どこまでも電車、電車、終わらないー。その中でひときわ私の注目を集めたもの、それは、一つの荷台にむき出しに載っていた特大のテトラポッドが2つ。灰色の、10年くらい波に打たれて少しざらついた感じの、特大サイズのテトラポッドが駆けていったよ。
なぜかその寂しい駅のホームから、新橋への直通電車が伸びている、とのことだった。
ピンポイントすぎる。明治維新か。
***
早寝早起きを目標に掲げてから、前よりも寝付きがよくなったように感じます。有言実行というのは、結果論なのかと。目標は隠し持つよりも大っぴらにするべきだね。
***
常磐線ユーザーに捧ぐ。茨城千葉の面々、もだえろ。