プロフェッショナルを見るたびになんとなし落ち込むのをそろそろ辞めたい
なんでだろうねー
今日のプロフェッショナルはオークションスペシャリストという職業を追った回でした。クリスティーズのオークションに出品されるお宝を探しては、プレゼンし、予想落札額をつけてオークションに出品する。数百億円が飛び交っていく様はすごかったです。オークションと聞いてHUNTER×HUNTERのサザビーを思い出すくらいの知識しかなかったのですがとても面白かった。最近博物館やら美術館やらちょこちょこ行くし。
http://www.nhk.or.jp/professional/2017/0327/index.html
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なぜかプロフェッショナルを見るとちょこちょこ落ち込む、でもしばらくするとまた見る、ということを繰り返しています。別に大物になりたいとか何かを極めたいとか、出演してる人のライバル業者だとかそんなことは一切ないのですが、なんだか毎日の自分を省みてしまってどうにも。
いかにのんべんだらりと毎日過ごしているかを思い出しちゃうからですね。学生の頃の方がハリがあったのは確かです。
肩肘張りすぎない、でも抜きすぎないの加減がわからんなー
強烈にやりたいことも熱中することも今無いんだけど、それが問題?とりあえずやってたら熱中してたみたいな方向がいいの?
大学生の頃くらいからずっとふにゃふにゃしてます。
んーつまらない投稿ですが、泣き言の排出先ということで許してけろ。
アダジェットでアレグレット
金曜土曜と飲んでカラオケ終電なくすを連続でやったので、金土日の境目があやふやなまま月曜日を迎えようとしています。喉がカッスカス。
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3月9日が流れたり、東大の合格発表が報じられたり、Youtubeには「プロポーズされたらゼクシィ!」と煽られ(広告流す相手間違っとるで)、瞳を閉じても瞼の裏に映るのは取材立ち合いの夢だったりして仕事にどれほど強くなったでしょうという3月でした。(違
転職するひとや育休から職場復帰するひと、結婚して引っ越すひと、ゆるゆる働くひと、いろんな人がいるなぁと思いながら、いつも話す人とも少し深い話をしたりして、3月はものの考え方に影響が出がち。な気がする。
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とはいえ最近考えたのは「お風呂場の鏡は本当に必要なのか?」という問題です。洗顔のときにはどうせ泡だらけで目なんか開けられないし洗ったあとにちょこっと見るだけ。歯磨きするときだって口開けたら泡がこぼれるから見ないでしょう。磨き終わってからです、見るのは。というかお風呂場の鏡は曇る。そのくせ朝の情報番組とかで「水に含まれるカルシウムやマグネシウムが固まったのが曇りの原因。研磨力の高いスポンジなどで拭くとすぐにきれいに!」なんて時間をかけて解説していますが。
そもそも私お風呂場の鏡そんなに見つめません。使いません。果たして本当にお風呂場に鏡がないとやってられない状況があるんだろうか。既存の環境に流されてやいまいか?
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容赦なく正しいことを言いがちらしいので、気を付けよう。でも「本気になんてならなくていい 普通でいいから」って言うわりに「目をそらさないで 私を胸で感じていて」っていうのは矛盾してない?
まぁ、声とテンポが懐かしくて好きなので、いいです。
あやふやな部分もあると融通きくからね。この土日みたいに。
ウルトラスーパーガチやべぇ
最近やたらと「プレミアム」という言葉を聞く。プレミアムフライデーもそうだけれど、特に食べ物がそうだ。お酒も高級志向、お菓子もオトナの味。深夜バスも高級バスが登場した。
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SWITCHの特集「ほぼ糸井重里」の号に、バルミューダの寺尾社長と糸井さんの対談がある。そこでバルミューダの炊飯器について語られているけれど、寺尾さんが「徹底的に米の雑味取りをして、絶対に余計な味がしないようにしました」「誰と食べるか、どこで食べるか、いつ食べるか、それだけなんですよ。」と言っていて、世のプレミアム志向と真逆だなーと。
どうやったらおいしくなるか?ではなく、おいしくするのはあくまで私たちだという発想。日常生活の「ちょっといい」生活という底上げをするには、他人の言うプレミアムに頼っていてはいけないのだと感じた次第です。それはツールでしかないのだ。
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こんなにみんな高級志向し続けてたら、そのうち
「本格・極(きわみ) 〜PREMIUM〜」
とかプレミアムのインフレ起きそう。スーパーサイヤ人が4までいってしまったがゆえに最終的に猿人みたいになるのを思い出した。ラーメン屋の元祖も日本中にあるんですからね。
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水曜日のカンパネラを最近よく聞く。
『一休さん』という曲の
とんち利かせて → とんちき騒ぎさ
の言葉遊びは痺れたわー
わたしってばドーナツ
「この川に橋をかけてください」と言われたとする。
私はそのとたんに動けなくなってしまう。
「この川にかける橋の設計図はこれです」と言われたとする。
私はものすごくうまく働くと思う。
はたしてこれがいいのか悪いのかはわからない。
得手不得手、向き不向き、なんて言葉があるけれど、日本はやはりジェネラリストが天下の世の中ですし。
昔から、夢や目標というものがない。遠くにあこがれることもない。この人と何かをすると面白いだろうなぁとか、この人はすごいなぁとか思うことはあっても、「この人のようになりたい」とは思わないのである。あくまで自分は「そこ」とは切り離されている。
かといって唯一無二の存在になりたいのか、というとそれも違う。目立ちすぎるのは苦手だし、リーダーというタイプでもない。世の中にインパクトを与えようと思ったこともない。
私はあくまで、周りの人に面白がられていたい、周りの人のためになりたい、というそれだけなのです。(と、気付いた)
だから身の回りの理不尽には憤るし、身の回りの悲しみは慰めたくなるし、身の回りの人を笑わせたいと思うのです。あくまで身の回り。
「身の回り」ではあるけれど、そこに「自分」は入っていないようにも感じる。
このような弱気な、遠慮がちな姿勢がいいのか、というと難しい。自分の可能性をすごく、すごく狭めてしまうことだろう。かといって、新しいことをしようとするとビビり体質がすごいから、他の作業がすべて非効率になる(し、ひどいときはネガティブになって動けなくなる)。
長所や得意を伸ばし続けるべきだろうか?でもそれで認められるには、よほどの結果を出さないといけないだろう。何か結果を出すということは、いったいどういうことなんだろう。人に認められるほどの何か、ということ?自分で納得しきった何か、ということ?
今まで他人からの評価で「自分」を保ち続けてしまってきた、その弊害にやられています。
出会いと別れの季節には、気持ちがぞびぞびします。
ビターチョコだっておやつでしょ?
最近休日の片いっぽうをがんばると、もう片方はポジティブな引きこもりをエンジョイするようになっている。外出しない日は録画していたTVを見たり動画を見たり本を読んだりしているので充実している、ほんとに。外に出る元気がないから引きこもっているのではなく、「ポジティブな」動機で引きこもっているのだ、誰にも責められることはない…!
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最近時代小説を読んでいて、江戸の風俗をもっと知りたいと思った。ちょいちょい出てくる専門用語をググったりしながら読んでいるけれど、江戸時代の庶民の皆様の時間感覚、ややこしすぎや、しませんか。
まず、正午が「九つ(ここのつ)」。日の出が「明け六つ(あけむっつ)」で、日の入りが「暮れ六つ(くれむっつ)」。「明け六つ」から昼に向かっておよそ二時間おきに、「七つ」「八つ」。そして正午の「九つ」。そこからなんと、数が減る。「八つ」「七つ」。そして「暮れ六つ」に至る。
小説の中では「八つ(午後二時ごろ)にお客が来るからね」なんて注記がしてあるからまぁわかっていたけれど。上の法則を知らないと、午前中の「七つ」が出て夕方にも「七つ」が出てきたり、もう意味がわからんのである。単純に増えるんじゃないのかい、と。しかもよくよく考えると、日の出と日の入りを基準にしているから、夏と冬でだいぶ日の長さも変わるんだからどういう感覚でやってるのかと。難しいねぇ~でも「時計」なんて身につけないし、まさに体内時計と「おてんとさま」で生活してたのね。抽象的な時間の概念なんて実際の陽射しに比べたらたいしたことないってか。
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そして思った。
「3時のおやつ」ってこれか…!「八つ」か…!
調べてみたら本当にそれが由来だった。うおおお知識と知識がつながった瞬間…!身もだえするぜ。
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タラレバ娘ではアラサーがビキバキとメンタルをやられて身もだえしているけれど、女の子は砂糖と薬味(スパイス)でできてるし、甘いものが焦げたら苦くなるんだから。この世の女の子成分を否定することはできないし、おやつは大事だと思う。
ああ、春っぽくなってきたねぃ。服を買いたい。
共感までに時間がかかった
中学から高校にかけて、父親に対してやけに反抗的だった。いわゆる反抗期というやつで、何から何まで、父親の一挙手一投足すべてがムカつくという、今思うと本当に悪いことしたなぁという感じで笑
大きなケンカはしなかったけれど、イライラしてよくない態度だったなぁと。今は仲よいけれど。気づいたら抜け出してました。世のパパ予備軍の皆様、十中八九このときは来るから心の準備をしておいてね。
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父親は本をよく買う人だ。本棚は本でいっぱいだし、床にも机にも平積み、独り暮らしで実家を出た兄の部屋にも本が溜まり、反抗期の私は攻めやすいところで「さっさと片付けろ」とよく言ったものだ。「どうせもう読まないならブックオフにでも売っちまえばいいだろ」と言えば、父は「そのうち片付けっから」。それを受けて憎らしいことに「そういってずっとやんないでしょーよ」と言い返してしまう娘でした。
退職したら片付けると言っていた気もするが、今の実家にも相変わらずビジネス書やら雑誌やら、退職してからハマっている地元の歴史研究の資料やらで本だらけだった。
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そんな自分も最近本を気軽に買ってしまう。前に買った本を読み切らないうちに、あれも買っておこう、これも買っておこう、という具合に雑誌も小説も漫画も買ってしまう。おまけに特に雑誌は虫食い読みをしてしまうから、きっちり読みきらない本が溜まってきている。
でも捨てられないんだなぁ。この前新宿でやってた深夜寄席に行ったときに、半年前に買った雑誌ダイヤモンドの落語特集が役に経っちゃったもんだから余計に。
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いつだったか「本当は本が好きじゃなくて背表紙が並んでいることに悦に入っているだけじゃないか」と思ったときがある。その頃はやけに厭世的で劣等感が強かった時期で、自分のしていることにも常に懐疑的なネガティブ人間だった。今でも本が溜まるとそうよぎることもあるけれど、そんなことを考えていても仕方ないので「趣味嗜好アルバム」くらいの気持ちでいいかなという感じ。
ハズレだったなぁと思う漫画はすぐに売るし、欲しいと思って買った本はたとえ場所をとっても不満はない。
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日本の相対的貧困家庭、というのがさっきTVでやっていたけれど、そういった家庭の子供はスマホや自転車は持っているという。でも本にはお金をかけられないらしい。
本に恵まれた子供時代があったから今も本を読もうと思えるわけで、よい育ち方をした(させてもらった)んだと思う。だから今、父親の片付けられないことを昔ほどに責めることはできない。ま、今はもう責めようとも攻めようとも思ってないけど。
空気を読むための天気予報はないのです
今更ながら『嫌われる勇気』を読んだほうがいいのかなと思い始めた。自分が中学生のときにクラスの「リーダーシップ取りたがりムカつく系女子(仲間はいるがあまり好まれない系)」を論破して(やりこめて)気持ちいい思いをしたことがあって、でもその後やや面倒な感じになって「生半可な覚悟で攻撃をしてはいけないのだ」と感じたのを思い出しました。
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おとなしく真面目ないい子として育ってきたけれど、面倒なことからは離れよう、離れようとしてここまで来たから、怒ったり怒られたりに慣れていない。大学のときはまぁいろいろあったけれど、自分の意志と他人からの評価が離れれば離れるほどつらくなるものなので、自分の意志を守るためにはときおり怒ることも必要なのです。
かといって怒るのであれば、その後の回収も自分でやる必要がある。というのが大人なんでしょうね~難しいね~
「雨降って地固まる」と言いますが。雨を降らせるか、雨に濡れないように逃げるか、雷を落とすか、いろんな手段もあるわけで。
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行こうと思って目をつけていた東洋文庫が今日たまたまNHKの探検バクモンでOAされてた。終わりをちょこっと見たくらいだけど。今度行こうと思ってたのにOAの影響で混んだら嫌だなーでもニッチだからそんなに影響ないかしらん。