遠浅の好奇心

海・湖などで、岸から遠く沖の方まで水が浅いこと。そういう所。

愚痴マウンティング現象

愚痴というのは、がっつりと聞いてもらわなくても成り立つのだと、最近ようやく気づいた。

 

たとえば、誰かが「昨日帰りが遅くて眠いよ」と言う。

すると別の人が「俺は終電で帰ったよ」とかぶせる。

そしてもう一人が「俺、徹夜。」とかぶせる。

 

私はこれを「愚痴マウンティング現象」と呼んでいる。

「自分だってきついぞ、俺も大変だぞ」と言いたくなることです。

 

愚痴は、誰かが聞いてあげるもので。「あんたは頑張ってるよ、えらいよ」と褒めてあげて、愚痴っているその人を励ましてあげる、という一連の流れのもので。

…と自分は考えていた。

 

「聞き手は救済することが任務だ」と思い込んでいた私にとって、「愚痴マウンティング現象」は苦手なものだった。愚痴った人が救われないじゃないか。なんなら余計なストレスも溜まりやしないか。そうだ、自分はこのマウンティング現象は起こさんぞ、と思い立ったのでした。

 

友人、知人、後輩から何かを愚痴られたとき、うんうんと耳を傾け、「そうだ、お前は頑張っているよ」と褒め、状況改善のために何ができるかを一緒に考え。そうして私に愚痴った人々はすっきりした面持ちで去っていった。気がする。

不毛な「愚痴マウンティング現象」を起こさなかった私は偉いぞと思いつつ、自分もいいことをしたような気でいた。

 

だが最近気づいた。自分が愚痴る相手がいない。

愚痴ると相手が逆に愚痴ってくる。「愚痴マウンティング現象」を自分で断ち切ることを信条としている私は、そこで愚痴をストップして聞き手側に回る。すると「いつも悩み相談に乗ってくれるいいひと」と思われるようになる。そんなイメージができてしまうと、どうやって愚痴の口火を切るのかよくわからなくなってしまったのだ。

 

わざわざ愚痴を言うという行為は気持ちのいいものではない。相手にとってつまらない話だし、嫌なことをただまくしたてる話だ。一体みんなどうやって愚痴っているんだろう。誰にどうやってどんなタイミングでそういう話をふっかけているんだろう。

 

そこで「愚痴マウンティング現象」である。

 

この現象では、ある小言から、全員がちょっとずつ愚痴を言うことができるのだ。そしてお互いに「俺だって大変なんだぞ」と言いつつ、「お前も大変なんだな」という共感、最終的に「お互いがんばるか」「いつでも話聞くぜ」という平和的な着地点に落ち着くのだ。酒が入っていりゃあ、他人の悪口なんてよい酒の肴にもなる(そこそこにしたほうがいいけど)。愚痴マウンティング現象とは、全員がちょっとずつ愚痴を吐き出すチャンスだったのだ。

 

そして、愚痴った当人は、翌日そんなに細かいことを覚えていないものである。「お悩み解決」なんて高い次元にはいかないまでも、吐き出すだけでだいぶスッキリするものだ。そうやってみんなガス抜きしているのだ、とようやく気づいたのです。

 

愚痴=悩みと思い込んでいた説。

 

愚痴が「悩み相談」にフェーズが上がった時点で、聞き手側はけっこう体力を使う。自分自身の昔の苦い思い出がよみがえってきたり、そもそも愚痴ってる当人の問題点が大きいこともあって気を遣ったり、言葉選びも慎重になるものだ。

 

自分は相手の愚痴を聞くと「悩み相談」に勝手にランクアップしてしまう癖があって、相手側のなんてことのない愚痴に対して精神的エネルギーを吸い取られてしまうことが多々ある。なんなら、昔の苦い記憶を思い出して心が痛んだり、「偉そうにアドバイスしている自分も実はそんなに有能でもないし」という自己卑下・自己矛盾を感じてしまったり、ダメージが実は大きい。相手の気持ちに引っ張られやすいのだ、そもそも。負っているダメージのわりに、相手は「愚痴」なのでそんな深い気持ちで話していない。そもそもスタンスがずれているのである。

 

私は優しすぎるのかもしれない。

敏感すぎるのかもしれない。

もっといい加減に聞き流すとか、相手の反応を感じ取りすぎないとか、そういうふうにしないと、心がもたないぞ。

あつい②「厚い」について

子供のころに、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』を読みました。

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amazonのせいかリンクが超長いw

 

ネバーエンディング・ストーリー』として映画化もされた名作です。

確か親戚からもらった本だと思いますが、当時小学校低学年の自分には長いやら、難しいやらで途中で断念した記憶。だって「虚無」とか出てくるんですよ。小学生には難しかろうて。親に聞いた気がするもん、「お母さん、虚無ってなぁに」て。お母さんも困るて。薄ぼんやりした記憶によると「何もないってことよ」と言われた気がします。辞書を自分で引いた気もします。よく覚えてないです。幼い頭なりに、黄土色のなんにもない空間みたいなものをイメージしたもんでした。

 

確かその時は読破できず、小学校高学年か、はたまたもっと後か、どうにかこうにか読み切った気がします。でも正直あんまり覚えていない。何度かチャレンジするものだから、最初の方だけ何度も読んでいるので、頭の方はなんとなく覚えてるっていう笑

 

でもやっぱり一番印象的だったのは、本の装丁でした。

 

あの綺麗で、でもちょっとおどろおどろしいえんじ色。しかも二匹の蛇が互いの尾を噛み合って円を描いている。本の角度を変えると、えんじ色も変わって見える。蛇の色が移り変わる。表紙だけでも楽しんだ思い出。

しかも本の中に、今自分が読んでいるこの本自体が出てくるっていう驚き。本の中に登場する男の子が読んでいる本が、自分が読んでる本と同じなんですよ。その男の子が本の中に入り込んでしまうっていう、自分と、男の子と、自分が今読んでいる本と、男の子が読んでいる本と、なんていうか「鏡合わせで延々につながる世界」に迷い込む感じになるんですね。

 

ぱっと本を開いてぱらぱらめくると、字の色が二種類ある。それも斬新でした。えんじ色の文字と、緑の文字。世界軸が違うよ、ということがわかりやすいようにしているんだと思ったけれど、それだけでワクワク感がすごかった。そんな本に出会ったことなかった。

 

いろいろな種族が出てきて、特徴が事細かに書いてあるからイメージがどんどん広がる。挿絵も章ごとにあるくらいだから、ほとんどイメージまかせ。大人が読んでも読みごたえがあると思います。

 

最近読み直す機会があったのですが、読み切れませんでした。体調が万全でなかったせいか、集中力が持たなかった…くやしい。またリベンジします。

 

ミヒャエル・エンデの『モモ』も名作です。大人になったらぜひ読んでほしい、「時間どろぼう」の話。確かブログに書いた。

habitaso.hatenablog.com

habitaso.hatenablog.com

 

今振り返ったら2記事も書いてたw よほどよかったのかな。

 

***

 

先日「熱い」思い出を書いてみましたが、同音異義語シリーズ(?)でいってみたいと思います。さて、いつまで持つか。

東京都庭園美術館②旧朝香宮邸の美しさ、うらやましさ

東京都庭園美術館に先日行きましたが、建物自体がとても美しくて見惚れてしまって、展示と建物とで感動が二倍になったようなお得な気分になりました。

 

建物の何がそんなによかったかと。詳細はHP見てくれればよいのだが。

www.teien-art-museum.ne.jp

ぜひ実際に足を運んでいただきたいです。

HPにあるように、建物自体ができたのは昭和8年(1933年)。フランス人の芸術家・建築家、そして宮内庁の技師たちが創り上げた、アール・デコ様式の美しい洋館です。

 

他にも東京には、三菱財閥を興した岩崎弥太郎のお屋敷である旧岩崎邸など、モダンなお屋敷がそこかしこに残っています。

文京区 旧岩崎邸庭園

 

岩崎邸も行ったことがあります。ゴージャスで、荘厳で、明治にこんな建物と庭園を造ったのかとびっくりしたものです。重厚ってこういうことかーっていう。

 

庭園美術館の旧朝香宮邸は、皇族のお屋敷。時代も昭和で少し新しいこともあり、岩崎邸とは印象が違いました。

 

岩崎邸はなんというか、「どうだ、この屋敷はすごいだろう!」と見せつける感じがあるんですね。「おお、確かにすごいっす、、、」と言わざるを得ないというか。素敵なんだけど、威圧感もあるというか(個人の見解です)。

 

朝香宮邸は、それとは違う。「自分で本当に住みたいおうちを、こだわってこだわりぬいて創りました」という感じ。そこで暮らすことになる自分自身の居心地のよさや、建物自体の美しさに自分で嬉しくなりそうな感じというか。訪れた人、建物を見る人ではなくて、住む人自身を第一に考えているんだ、という印象を受けます。

 

建物の設計に朝香宮自身がどこまで関わっていたのかはわからないけれど、「この家で暮らすのだから、暮らしたい家をこだわりたい」という気持ちが伝わりました。

 

なんでそこまで感じたか、というと。行けばわかる←

と言ったらおしまいなので、いくつか思い出しながら。

www.teien-art-museum.ne.jp

 

と言っても、HPにかなり詳細に各部屋の特徴が書いてあった!

各部屋の写真をぱらぱらと見てもらうだけでもわかるんだけど、照明が各部屋ごとに形が違うんですね。そのすべてがおしゃれ。素敵。美しい。食堂の照明はパイナップルとザクロがモチーフになっていたりと、部屋ごとの特色を出しているのがまた素敵。

 

通気口として天井に透かし彫りのような穴が開いているのだが、各部屋の照明デザインと合わせて穴のデザインも素敵になっていてこれまた美しい。天井見るだけでかなり感動します笑

 

部屋ごとに壁紙も、照明も、床も、かなり違っているのに、ちぐはぐな感じはしないのはなぜなのだろう。レリーフで飾られた部屋もあれば、モダンなデザインの壁紙の部屋もあったり、絵で飾られた部屋もあり。どの部屋に行っても「うわぁ…!」と思ってしまうのです。

 

そして第一階段が一番テンション上がります。

大理石の美しさ、段々になるレリーフの美しさ、そして階段を登り切ったところにある照明柱の美しさ(もはや美しさしか言ってない、語彙力w)。ドレス着て歩いてみたくなりますね。舞踏会です、みたいな体験したくなります。

 

暖房器具のラジエーターカバーというものがあって、暖炉の前の柵など各部屋にあるのですが、それも全部装飾が施されていて。もう、手抜きがない。こだわれるところは全部こだわっちゃってるもの。

 

そして2階の書斎。建物の角部屋にあたることを活かして、家具の配置や照明を工夫していることもあり、八角形の部屋みたいに感じるんです。そこに配された机も素敵。絨毯が八角形になっていて、均整がとれた美しい部屋ってこれかな、っていう。こういうお部屋で読書したい、お手紙書きたい。

 

書斎の隣に書庫が併設されていて、その部屋から見える庭園の緑がまた美しい。この建物からは窓から緑の木々、芝生が目に入って、都会であることを忘れてしまいそう。

 

もう挙げればきりがないのですが、とにかく美しいお屋敷でした。庭園も広くて、芝生広場だけでなく、日本庭園もありました。外から見る建物自体もまた、いい。

 

ここまで「美しい」を何回言ってるんだって感じですが、建物にこんなに感動したのは初めてだったかもしれない。押しつけがましくない感じ、私以外の方にも伝わるだろうか。本当にここに人が住んでいたのか、と思うような豪華さですが、「暮らしのための家です」という感じもするんだよね。

 

HPの写真はごく一部でしかないので、ぜひ一度行ってみてください。

天井から壁から床から隅々まで、きっと溜息しちゃうわ。

アーティストの在り方~ブラジル先住民の椅子 野生動物と想像力@東京都庭園美術館

東京都庭園美術館で開催されている展示を見てきました。

www.teien-art-museum.ne.jp

 

駅貼りのポスターで見かけて気になったので。本当は上野でやっているエッシャー展(http://www.escher.jp/)に行きたかったけれど、ものすごく混雑しているようなので、前から気になっていた庭園美術館に行くことに。

 

初めて行ったけれど、場所も展示も素晴らしかったです。

書いているうちに、展示で受けた感想と建物から受けた感想がごちゃごちゃになりそうなので、まず展示自体について書きます笑

 

まず概要をサイトから。

南米大陸、ブラジル北部のアマゾン河やシングー川流域で暮らす先住民の人びと。彼らの作る一木造りの椅子は、動物のフォルムや機能的なフォルムに独特な幾何学模様が施されており、ユニークな造形作品として捉えることができます。元々、先住民にとっての椅子は、日常生活の中で使用したり、シャーマンによる儀式や結婚式等の特別な機会に用いるなど、彼らの生活や伝統、独自の神話と色濃く結びついており、コミュニティ内の文化的・社会的なシンボルでもありました。それが今日、コミュニティの外との繋がりから刺激を受けて、自らのアイデンティティを自然を捉える眼に求め、用途や伝統に縛られないより多様かつ自由な表現が生まれてきています。

東京都庭園美術館|ブラジル先住民の椅子 野生動物と想像力|2018年6月30日(土)-9月17日(月・祝)

 

一本の木から削り出される椅子。動物をモチーフに様々な模様が施された椅子が、館内のそこかしこに展示されていました。

 

ヒョウや鳥、猿、バク、いろんな動物がモチーフになっていて、それぞれ個性があって愛らしかったです。猿はしっぽがくるんと丸まっていたり、バクは長い鼻にモダンな模様が描かれていたり。目がキラッとするなと思ったら貝を埋め込んでいるものもありました。凛々しいヒョウと思ったらぺろっと舌が出ていたり。一本の木から5個くらいの椅子を作るそうですが(サイズにもよるけど)、どの椅子もニスを塗ったかのようにきれいに脂がのって(?)いて、美しかったです。模様が目立ちすぎることもなく、動物らしさとアートらしさのバランスが素敵でした。

 

ただ、見ていて違和感があったのが、作品説明。美術館に行くと、たいてい作品の脇に作品名など情報をまとめた小さいボードがありますね。タイトルはもちろん、作者の名前、制作年代、作品の材料。有名作品であれば、その作品にまつわるエピソードもまとめてある。「美術館が混むのはみんながこれをじっくり読んでいるからでは?」と思ったこともあるくらい。作品には「補足情報」がセットで、それを見て「なるほど、これはこういう作品なのね」と情報をインプットしながら鑑賞することが多いです。

 

今回の椅子。作品の横にあった補足情報は、以下3点のみ。

・モチーフになった動物

・制作した先住民族の名前

・制作者名

 

ほぼ作品情報がない。

しかも「作者不詳」なんてのも多い。

 

先住民族の名前は、入場の際にもらうパンフレットに解説が載っていたので、それを読んで、ふむふむと。今回は17の先住民の作品が展示されていたのですが、それぞれの先住民ごとに作風が違うようで、それについてパンフレットに細かく記載されていました。

 

動物は見たらわかるものが多かったけれど、作品名がないので、ある意味それ自体を見て楽しむことができました。「なんだこれ?」って思ったのは「エイ」くらい笑

 

特に困ったのが、制作年代がない。いつ作ったんだろうと思いました。古いのか、新しいのかよくわからない。そんなに傷んでいないものも多いし。古ければ「昔からこんなにアーティスティックで素敵だったのね」とか、「よくこんなのが残っていたね」とかの感想を持つし、新しければ「今もこんなモダンなものをジャングルで創っているのか」みたいな感想を持つし、「いつ」作られたのかってけっこう意識するよね。

 

それがないので、古いのか、新しいのか、もやもやしたまま展示を見続けました。モノじたいは面白いし素敵だな、とは思うんだけど。

 

展示は本館→新館と移動して後半へ。新館には映像作品がありました。実際に現地の先住民が椅子を作っているところを取材した映像17分。先住民に東京都庭園美術館の館長 樋田豊次郎さんがインタビューする取材映像25分。17分のほうだけ見て終わりにしようかな、と思っていたけど、想像以上に面白くて見入ってしまいました。

 

森に入っていって、木を切り倒す。その場で木を5つくらいに分けて、椅子の大枠を作る(ジャングルの中で!)。持ち帰れるサイズ、重さになったら村に持ち帰って、細かい仕上げ作業へ。彼らはそれぞれがアーティストで、子供のころから親兄弟が作っているのを見ながら学んで、個々人の感性で椅子を作っていく。それが現代も続いている。

 

ここまで、見て、ああ、だから制作年代がないのかと思いました。今も続いている作品なのだから。

 

そのまま25分のインタビュー映像へ。ここが激熱だった。

メイナクという先住民の兄弟に、館長がインタビューしている映像。ここで、すごく印象的だった言葉が、

「私たちは、自分たちの作っている椅子を『民芸品』と呼ぶのをやめたのです。『木彫芸術品』と呼んでいます。」

 

アーティストなのです、彼らは。先住民特有の珍しさとか、希少性を売りに出すのではなく、自分たちが一つずつ手作りで、自分たちのセンスで作り続けている椅子を「作品」として世に出したい、認められたい。そういう目的意識、プライドを感じました。

 

サンパウロビエンナーレという国際的なアートの展示会にも彼らの椅子は出展していて、それを機に取材も多く増えたと。「先住民」という枠組みで椅子を作っているのではなく、先住民族それぞれで創り方も考え方も違うし、それぞれの暮らし方も違う。自分たちの存在自体をアピールするきっかけにもなったと話していた。

 

そうして外の人から作品を買いたいと言われたり注目されたりすることを通して、彼らは「先住民が自らの言葉で自らの芸術を語る必要がある」と感じる。自分たちは文字の文化がないから、口承で代々作り方を継承してきた。インタビューに応えていたメイナクの兄弟はポルトガル語を学び、外に情報を発信する。一方で、先住民族が作っている椅子それぞれについて、何をモチーフに誰がいつ作ったのか、何に使うものなのか(日常品か祭事用かなど)、材料の木はどのように選ぶのか、染料はどうしているのか、作り方や作品自体について記録を残すことにしたと言う。今までは残っていなかったから。

 

インタビューの中で「もし白人に『こういうモチーフで作ってくれ』と依頼をされたら、自分たちのアートのこだわりがあったとしても、注文を受ける?」という質問があった。ここでメイナクの兄弟は「喜んで受けると思う。新しいことにチャレンジできるから。自分たちの技術の幅が広がっていくから」と言っていて、すごく意外だった。伝統を守るという保守的な思考ではなく、技術を高めていくためにチャレンジをいとわないし、それを楽しんでいる。

 

彼らにとって外貨獲得手段でもあるアートとしての椅子の販売。まだ安価に扱われていると彼らは言う。「自らが自己評価を高めていく必要がある」と言う。

 

ただの民芸品やら伝統やら言っている人たちではない。彼らはアーティストであり、プロデューサーであり、自分たちの先住民としてのアイデンティティを守りながら世に発信していく、一人ひとりがその目的意識のもとに常にチャレンジを続けているのだ。

 

美術館や博物館にはよく行くけれど、「アーティストの在り方」というものに心をこんなに動かされたのは初めてでした。今回の展示は、あのインタビュー映像があってこその展示だと思います。

 

伝えたいものが明確な人というのは、こんなに強いのか、と感じました。

 

9月までやっているので、是非皆さん足を運んでください。

そんなに混んでないし、建物自体も美しくて素敵だし、格式ばってないし。

とてもおすすめです。ほんとに。

SNSに投稿していないとき

自分は正直言って、メンタルのコントロールが下手くそである。学生時代は抑うつ状態になり、いろいろなコミュニティを逃げるように脱ぎ捨て、社会人になってからも病院に通ったり薬を飲んだり。そんなことを数年繰り返している。傍から見ていてわからないという人もきっといるだろう。元気なときもあるんだもの。

 

***

 

母が更年期で体調を崩していたときに「TVで見るような元気なおばあちゃんたちみたいに、年を取ってから旅行なんてできるかしら」なぁんて弱気なことを言っていた。

 

そのとき自分は、知ったふうに言い返したものである。

 

「ああいうふうにTVに映ったり旅行をしたりする人たちは、元気なときだけ外に出てるの。外に出て元気にしている姿を見てるから『元気なお年寄りだ、すごいなぁ』と思うけど、調子が悪いときは外に出ないで家にじっとしてるんだよ。私たちが目にするのは外で元気にしているところだけだから『元気なお年寄り』ってつい思っちゃうけど、みんなどこかしら具合悪いところもあるんじゃないの」

 

母は「なるほどね」と妙に納得したようだった。

 

***

 

SNSも同じである。

 

元気で楽しいこと、頑張っていることをついつい投稿したくなるものだ。逆に、元気がないことをつぶやいたり投稿したりすると「かまってちゃんかよ」「メンヘラか」みたいに思われるようにも感じて、どうも何も言えなくなる(そもそも投稿する元気がない場合もある)。結果的に、SNSのタイムラインはリア充(リア獣)が埋めつくしていくのだ。

 

そんなポジティブな彼らも、きっとしょんぼりするようなことも日々感じているだろう。そしてネットの世界じゃない誰かにこっそり相談したり、匿名性の高いどこかで憂さ晴らししたり、心にため込んだりしているんだろう。

 

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今日の『ほぼ日刊イトイ新聞』より。
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ほぼ日刊イトイ新聞

 ぼくが、なにかを言ったりやったりするとき、
 モノサシのようにしている「問いかけ」を紹介しておく。
 「わたしが、あなたに、なにか迷惑をかけましたか?」
 ポイントは、「わたし」と「あなた」を決めることだ。
 「わたし」ではない他人のことは答えられないし、
 「あなた」でない人の問題を、言われても困る。

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落ち込んだり、自信がなかったりするときは、

【「わたしが、あなたに、なにか迷惑をかけましたか?」】というこの問いかけがうまくできない。

 

「わたし」がものすごく小さくなる。
そしてここで言う「あなた」が「すべて」に近いくらい大きく怖いものになる。

 

「わたし」という存在自体に自信がなくなると、「わたし」の境界線が曖昧になる。「わたし」という基点がふにゃふにゃになってしまうと、周りの景色もぼわぼわと曖昧になっていく。「あなた」が得体の知れない怖いものになる。

 

そして、いつ何をやっても、誰かに対して迷惑をかけている気持ちになる。

 

「わたし」を確固としたものにすること、自信を持つこと。そうするとだんだん周りも見えてきて、判断を下したり意見を言ったり、そういうことがスムーズになってくる。でもそれが難しい。自分じゃできない。

 

周りにそういう人がいたら「あなたってこういう人よね、素敵ね」って教えてあげてください。

 

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SNSの「投稿する」を押していない、もう半分の気持ちも忘れずに、見透かしてあげたい。

あつい①「熱い」について

小学校高学年の頃だと思う。毎年8月のお盆のことである。

 

そもそも我が家は日本的なイベントをきっちりしっかりやる家で、お盆もそのうちの一つ、恒例行事だった。仏壇とは別に小机を出して小さな仏壇を作り、白い布を敷き、お線香を立てる香炉の灰をきれいにする。果物やお花をお供えして、キュウリの馬とナスの牛をあつらえる。家紋入りの提灯を納戸からえっちらおっちら持ち出して、説明書を見ながら組み立てる。しかも2つ。と思いきや、くるくる回る飾りのついた提灯も組み立てる。それでもって玄関に吊り下げる大きな提灯と、親戚から贈られた吊り下げ型提灯を組み立てる。提灯だけで5つもあるじゃないか。そして小さな仏膳を用意して、食べ物もお供えするのだ。送り火まではやらなかったかな。

 

 

(提灯のイメージが伝わるかな、と思いググったら、家で組み立てていたのは盆提灯と言うらしい。それなりのサイズ感である。

お盆・新盆・お盆提灯(盆ちょうちん)

 

そして家族全員でお墓参りに行く。両親と兄2人、5人で車に乗り込んで、エアコンがなかなか効かないと文句を言いながら15分くらいでお寺に着く。

 

お寺に着いたら仏花やお線香を買う。卒塔婆も買ったかな…このあたりは記憶が曖昧だ。綺麗で新しい卒塔婆を父が担いで運んでいた記憶がある。兄が水桶に水を汲んで、もう一人の兄と母が仏花の束を両手に持って、自分の家の墓地へ向かう。私はお線香の束を持っていた。

 

いつもは煙いから嫌がっていたのに、なぜそのときだけ自分が持っていたのかはよくわからない。2cmくらいに太い束になったお線香を2束、両手に持って、我が家の墓へとだらだら歩いていく。煙が後ろに流れていく。

 

お線香は火がついているから、風向きに気を付けながら運ぶ。風に煽られて燃え上がったら大変だ。自分の体を風よけにして、くるくる回りながら歩いていた。

 

お盆だし、どこの家もお墓参りをしているようで、墓地には目新しいお供えの花があちこちに色づいていた。味気ない墓地に白や黄色の花、青々とした葉っぱが鮮やかにぽつぽつと見つかるのは不思議な光景だった。

 

自分の家のお墓について、お花を供えて、墓石に水をかけて。お墓は狭いので、家族で順番にお線香をあげる。私が抱えていたお線香も少し短くなってきていた。家族に分けるためにお線香をいじっていたときに、「びゅっ」と風が吹いた。

 

あっっっっっつ!!!!!!!!

 

お線香の束が「ぼわっ」と燃えて、私の指にかかった。「火がかかった」というのは変だけど、そんな感じだった。

 

というか、とりあえず焦って熱くて、水桶に手を突っ込んだ。

 

そのとき、

 

「おまえ、指毛燃えてね?wwwwww」

 

というようなことを家族の誰かに言われた。

 

そんなん知らんがな。

 

この「ゆびげがもえる」という言葉の破壊力がすごすぎて、誰が言ったかも本当に指毛が燃えたかもよく覚えていない。

 

というか子供に指毛あったか?あっても産毛?

 

もうこの言葉の印象のせいで、私の記憶の中で「あったかなかったかわからない指毛」がチリチリしているのだ。私の指の上でチリチリしていやがる。今だってそんなに指毛ないのに。

 

お線香を落としてしまったのか、お墓参りは普通に終わったのか、もうその辺もよく覚えていない。お墓参りは毎年同じようにしているから、正直記憶もごちゃごちゃだ。

 

でも、「あつい」記憶を探ったら、一番に思い出したのがこの「ゆびげがもえる」事件だったのだ。

 

あのとき手を突っ込んだ水桶の水は、お寺の井戸水のせいか、とてもひんやりしていた。そのせいか、チリチリとした熱い感覚が水の中で目立っていた。

YUKIの『COSMIC BOX』の世界に沈みたい

カラオケで気持ちよく歌えたときは気分がいいものである。久々にジュディマリの『そばかす』を歌って、思ったより上手く歌えていい気分だった。

 

でも私が好きなYUKIの曲は『COSMIC BOX』という曲だ。

www.youtube.com

 

ただ、誰でも知ってる歌ではないのでカラオケでは歌わない。ジュディマリYUKIも好きだけど、歌手の中で一番好きというわけでもない。でもその中でいうとこの曲が一番好きだと思う(そもそも純粋なファンではないから、少ない知っている曲の中で選んでいる)。

 

翌日に『COSMIC BOX』を久々に聴きなおして、ついでにwikipediaを読んだら当時のYUKIのインタビューがあって。それを読んだ上でまた聴いて、歌詞を見直して。そんなことをしていると、昔とまた違うところで感動するのだ。

 

数年前は「公園の砂場に残されたシャベルを、宇宙に飛び立つロケットのコクピットに見立てる想像力たるや、素晴らしすぎかよ」とか思ってたんですが、今見るとまた違うわけで(そこもすごく好きなんだけどね)。

 

最後のほうのサビなんですが、

 

 遥か遠い昔から
 伝わる言葉も全部無意味だとしても
 誰かが紡いだ
 愛と未来の歌をうたおう

 

もはやここに「自分」とか「現在」はないんですね。

「愛と未来の歌」は「自分」ではなく「誰か」が紡いだものであって、それをうたおうよ、と言うんですね。しかもずっと紡がれてきたものが無意味だとしてもなんですね。

 

一方で1番のサビのところで「遥か遠い昔から意味のある偶然を伝えているんだ」と言う歌詞があって。伝えたいとか、残したいとか、そう思っているものとは別に「意味のある偶然」と言うものが私たちの中に残されているのだと。

 

日常生活でちまちま落ち込むとか、そういう次元をすっ飛ばしててすごいなと。

私たちはただ生きているだけで、ずっと昔から伝えられている何かを未来に残していくことができて、それって素敵なことよ、と語られてる感じというか。じゃあいったい何を伝えていっているのか、そんなことを考えるのは無粋だわ、というか。

 

ああ、なんだろうこの世界観の壮大さをうまく伝えられない…!

そこに「公園の砂場のシャベル」ですよ…!

何この俗世と森羅万象っぷり…!

 

 

YUKIのオフィシャルファンクラブの名前がCOSMIC BOXに決まった」というニュースが今年の4月に出ていた。あんなにたくさんの歌を歌ってきた彼女自身にとっても、きっと思い入れの深い曲だったんだろうと思う。ちょっとうれしかった。

cosmicbox.net