遠浅の好奇心

海・湖などで、岸から遠く沖の方まで水が浅いこと。そういう所。

写真でひとことっていうか長文

先日「しみじみしすぎて雨が恋しい」と書いたら翌々日くらいに雨が降った。こんなこともあるのね。


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久々に何もない一日を過ごしたけれど、ここのところ休日に外出ばかりしていたから何かしないといけない気がして走りに行った。最近は無為に宇多田のアルバムをヘビロテしていて、今日も聴きながら走る(全くランニング向きじゃない選曲)。


少し寒いくらいの夕方に走っていたら夕焼けが綺麗。切り絵のように公園の木立が黒々としていて、放課後の帰り路とか高校時代のランニングとか思い出しては、地元はもっと寒かったよなーと思い出に耽る。


思わず写真を撮ったけれど、裸眼の風景よりも明らかに鮮明な写真をiPhone7が提供してきてなんだか複雑な気持ち。乱視がかった生の目では、今日の細い三日月は爪切りで切り落とした爪のカスがごしゃごしゃと混ざったようにガサガサしているのに、写真ではくっきり弧を描いていて、宵の明星まで写していらっしゃる。スマホを見てから空をみて、本当にあるなぁと金星を確認する。


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昨日は結局飲み仲間と深夜まで飲んでいて、相変わらずみんな頭がいいなぁとびっくりした。「俺たちは最後の時代の最初の世代なんだ」「お前はメンヘラ女のサービスエリアだ」うんぬんかんぬん。深夜一時に劇的に辛いハラペーニョを食べながら無駄に複雑な話がぐらぐらと展開されていって辛い辛い。わしゃあ凡人だ。おい、誰かあいつをプロデュースしてやってくれ。あー面白かった。


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スマホの液晶ディスプレイの中の風景が現実なのはわかるけれど、私が毎日認識している世界は乱視がかったごしゃごしゃした世界であって、結局そこは思い出補正のような、理想的な補正をしながら風景を見ているのね、と無駄に厭世的な気持ちになりながら走っていた。「リア充」ということばもあまり聞かなくなったけど、そうなると妄想だって「リア充」になってしまうのではないだろうか。

 

別に落ち込んでいるとか暗い気持ちとかそういうわけではなく、妙に虚無的な気持ちになることがあるじゃないのん。ガラケー全盛期に作ったブログにも同じようなうつろなことを書いていたことを思い出して、穴があったら入りたい気持ち。10年近く経っても同じことをしている。


でも虚無感の穴にこうした文字をコロコロと溜めていって穴をふさいで満足しているならそれはそれでいいんじゃないかと。


いたってご機嫌である。

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