遠浅の好奇心

海・湖などで、岸から遠く沖の方まで水が浅いこと。そういう所。

愚痴マウンティング現象

愚痴というのは、がっつりと聞いてもらわなくても成り立つのだと、最近ようやく気づいた。

 

たとえば、誰かが「昨日帰りが遅くて眠いよ」と言う。

すると別の人が「俺は終電で帰ったよ」とかぶせる。

そしてもう一人が「俺、徹夜。」とかぶせる。

 

私はこれを「愚痴マウンティング現象」と呼んでいる。

「自分だってきついぞ、俺も大変だぞ」と言いたくなることです。

 

愚痴は、誰かが聞いてあげるもので。「あんたは頑張ってるよ、えらいよ」と褒めてあげて、愚痴っているその人を励ましてあげる、という一連の流れのもので。

…と自分は考えていた。

 

「聞き手は救済することが任務だ」と思い込んでいた私にとって、「愚痴マウンティング現象」は苦手なものだった。愚痴った人が救われないじゃないか。なんなら余計なストレスも溜まりやしないか。そうだ、自分はこのマウンティング現象は起こさんぞ、と思い立ったのでした。

 

友人、知人、後輩から何かを愚痴られたとき、うんうんと耳を傾け、「そうだ、お前は頑張っているよ」と褒め、状況改善のために何ができるかを一緒に考え。そうして私に愚痴った人々はすっきりした面持ちで去っていった。気がする。

不毛な「愚痴マウンティング現象」を起こさなかった私は偉いぞと思いつつ、自分もいいことをしたような気でいた。

 

だが最近気づいた。自分が愚痴る相手がいない。

愚痴ると相手が逆に愚痴ってくる。「愚痴マウンティング現象」を自分で断ち切ることを信条としている私は、そこで愚痴をストップして聞き手側に回る。すると「いつも悩み相談に乗ってくれるいいひと」と思われるようになる。そんなイメージができてしまうと、どうやって愚痴の口火を切るのかよくわからなくなってしまったのだ。

 

わざわざ愚痴を言うという行為は気持ちのいいものではない。相手にとってつまらない話だし、嫌なことをただまくしたてる話だ。一体みんなどうやって愚痴っているんだろう。誰にどうやってどんなタイミングでそういう話をふっかけているんだろう。

 

そこで「愚痴マウンティング現象」である。

 

この現象では、ある小言から、全員がちょっとずつ愚痴を言うことができるのだ。そしてお互いに「俺だって大変なんだぞ」と言いつつ、「お前も大変なんだな」という共感、最終的に「お互いがんばるか」「いつでも話聞くぜ」という平和的な着地点に落ち着くのだ。酒が入っていりゃあ、他人の悪口なんてよい酒の肴にもなる(そこそこにしたほうがいいけど)。愚痴マウンティング現象とは、全員がちょっとずつ愚痴を吐き出すチャンスだったのだ。

 

そして、愚痴った当人は、翌日そんなに細かいことを覚えていないものである。「お悩み解決」なんて高い次元にはいかないまでも、吐き出すだけでだいぶスッキリするものだ。そうやってみんなガス抜きしているのだ、とようやく気づいたのです。

 

愚痴=悩みと思い込んでいた説。

 

愚痴が「悩み相談」にフェーズが上がった時点で、聞き手側はけっこう体力を使う。自分自身の昔の苦い思い出がよみがえってきたり、そもそも愚痴ってる当人の問題点が大きいこともあって気を遣ったり、言葉選びも慎重になるものだ。

 

自分は相手の愚痴を聞くと「悩み相談」に勝手にランクアップしてしまう癖があって、相手側のなんてことのない愚痴に対して精神的エネルギーを吸い取られてしまうことが多々ある。なんなら、昔の苦い記憶を思い出して心が痛んだり、「偉そうにアドバイスしている自分も実はそんなに有能でもないし」という自己卑下・自己矛盾を感じてしまったり、ダメージが実は大きい。相手の気持ちに引っ張られやすいのだ、そもそも。負っているダメージのわりに、相手は「愚痴」なのでそんな深い気持ちで話していない。そもそもスタンスがずれているのである。

 

私は優しすぎるのかもしれない。

敏感すぎるのかもしれない。

もっといい加減に聞き流すとか、相手の反応を感じ取りすぎないとか、そういうふうにしないと、心がもたないぞ。