遠浅の好奇心

海・湖などで、岸から遠く沖の方まで水が浅いこと。そういう所。

仮に人間が光合成できたとして

春が来たと思ったら、寒い。

ダウンコートをクリーニングに出して、代わりに春物コートを出したところだ。春物コートもせっかくの出番だろうに、体にぎりぎりと巻き付けられて風を浴びながら「寒い!」と罵られて、ああかわいそうに。そう言いたくなるくらい、風の冷たいここ数日に似合わない、頼りない薄いトレンチコートをたくさん見かけたのだ。

 

衣替えの季節はその通りで、クリーニング屋さんからは「ダウンコートはゴールデンウィーク明けになっちゃいますけど大丈夫ですか?」と聞かれた。そんなに時間がかかるのか。もうシーズンオフのつもりでクリーニングに出したから、別に問題はないのだけれど。

 

一方で日差しはぽかぽかと暖かくなっている、確実に。

 

いつだったか、「光合成できたらなぁ」と思った。

実家のベンチで日向ぼっこをしているときだったか。実家の縁側の位置、庭を見渡すポジションにベンチが置いてある(見渡すほど広い庭ではないが)。そこは日差しがさんさんと降り注いで、春に日向ぼっこするには最高なのだ(日焼けには注意だけど)。うまくいかないことばっかりでだらだらしたいときに、ベンチに座って太陽光を浴びながら「光合成で生きていきたい」と思ったものだった。

 

光合成ができたら食事は必要ない。食うためにあくせく働く必要もない。ただ日なたに出るだけで、エネルギーが生成されるのだ。

ただし呼吸は必要。水も必要。

あれ、よく考えたら衣食住の「衣」と「住」はどうにかしないといけないのか。そう考えると働く必要は出てくるなぁ。お金はどうしたって必要になる。おしゃれだってしたいし、いいところに住みたい。

働くということは結局今と同じじゃない?「食」が圧倒的に効率化される分、余計に働くようになってしまわない?特に日本人。食事休憩がなくなって、とりあえず日なたに出ればよくなっちゃうし。

 

仮に光合成で人間が生きていくとしたら、一日あたりどれだけ日光を浴びればよいのだろう。そう思ってググってみたら、同じことを考える人間はいるものである。しかも大学教授。

blog.ac.eng.teu.ac.jp

こちらの記事では、「光合成で人間が活動するエネルギーをまかなうとしたらどの程度の面積が必要か」を記載している。計算式とかすっとばして結論は以下のとおり(記事内より引用)。

もっとも今回の計算は太陽光のすべてのエネルギーを利用できる、という仮定で計算しています。我々が知っている植物の光合成のエネルギー効率(エネルギー効率ですよ。ここ重要。)は100%にはほど遠く、実際には1%を超えることはないとされています。頭に5m×5m(あるいは直径6m)の緑の葉っぱをつけて活動することを考えると「自分で光合成」はあんまり良いアイデアではなさそうです。 

 

頭の上に直径6mの緑の葉っぱを載せる必要があるようだ…。ただ、ここで言っているように「エネルギー効率が植物の光合成レベル」とすると6m必要。太陽光をフルにエネルギーに変えることができるなら、直径約60cmの円でよいらしい。日傘くらいか。それか半袖ハーパン生活くらい?いけるやん?

とはいえそんなテクノロジーはなかなか生まれないだろうが…。

 

光合成で生きていくためには、人間の体を大きく変えるバイオテクノロジーが生まれるか、地球の環境が激変して太陽光が超強力になるか、光をエネルギーに変える家電が生まれるか、全部成立しないとダメっぽい。なかなか遠い道のりである。

 

あーあ、やっぱり光合成は無理か。でもここまで書いてたら、別に光合成してもしなくても毎日変わらない気がしてきたぞ。食事を補えたとしたって、それ以外の生活は変わらず進んでいくだろうから。毎日の生活に「やり甲斐」「生きがい」を感じたいという欲求は相変わらず持っているだろうから。

 

実家のベンチでだらだらと愚痴っていた自分、光合成は諦めて運動でもしなさい。