遠浅の好奇心

海・湖などで、岸から遠く沖の方まで水が浅いこと。そういう所。

雨みたいに気まぐれな本音と建前

降ってるか降ってないか、よくわからない霧雨である。ビニール傘を「ぼすっ」と差すと、音もなく小さな無数の水滴が張り付く。あっという間にビニールは白っぽくなって、傘を通した視界は点々模様に埋まっていく。ようやく「けっこう降ってるな」と思う。

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GW前に駅の階段で転んでからずっと、左足の親指が痛い。日常生活は問題ないが、ぎゅっと曲げたりぐいっと反ったりするとちょっと痛い。ずっと違和感があるので整形外科でリハビリを始めた。どうやら、変に庇って歩いたことで足の筋肉が落ちてしまい、可動域が狭まっている、扁平足気味になっているとのこと。足の指をグーパーグーパーして筋肉をつけるといった筋トレが必要で、アドバイスを受けてからはしょっちゅう足をぐいぐいと動かしている。

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「こうすると痛いですか?」と聞かれても答えに窮する。正直、激痛はないけど、違和感がある程度なのだ。動かしているうちに慣れてもきて、痛いのか伸びて気持ちいいのかよくわからなくなってくる。リハビリを担当する理学療法士さんからすれば、患者の意見がないとリハビリ方針も立てられないわけで、「痛い気もします」「違和感はあります」といったふわっとしたことを言われても困るだろう。そんな先方の気持ちはわかるけど、中途半端に治りかけのせいか自分の足の感覚すらよくわからないからしょうがない。おまけに今日はリハビリの時間を1時間勘違いして遅刻してしまった。つくづく申し訳ない。

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本音と建前は、たまにどっちがどっちだか自分でもわからなくなる。本音を隠し持ったまま綺麗な建前を作り上げる人もいる。それは自分で本音と建前の区別がきちんとついているからできることだ。自分がどうしたいかわからなくて、でも多分周りにはこう見せた方がいいと感じてはいて、そういうことをしていると本音と建前がぐちゃぐちゃになる。周りから見えている自分を優先すべきとも感じ、でもその「自分」は建前だから本音じゃないよな?とも感じ。

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「足が痛いです」は本音なのだろうか。それとも、リハビリをスムーズに進めるための建前なのだろうか。正直自分のさじ加減で、「痛い」ことにもできるし「痛くない」ことにもできる。治したい気持ちが強ければ「痛い」ことにして具体的なリハビリ方針を貰った方がいい。でもそれは嘘ではないのか?こんなところで顔を出さなくていい良心らしき奴がひそひそ囁いてくる。

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サカナクションには雨の曲が多い。中でも、『Ame(A)』はかっこよくて好き(マイナーだけど)。『あめふら』『雨は気まぐれ』なと他にも何曲かあるが、どの歌詞にも「嘘」や「気まぐれ」「心変わり」のような言葉が出てくる。そしてだいたい、夕暮れ〜夜の話である。

心に雨 にじむ僕の白い一直線
嘘がほら夜の海のよう
揺れる揺れる正しい言葉
(あめふら)

きっと僕が何も言えないのは この雨のせいで
雲が晴れる前に言い訳しておくんだ
(Ame(A))

雨は気まぐれな僕のようで、僕そのもののようだ
(雨は気まぐれ)

雨が降る夜に、車のヘッドライトに照らされた雨が見える。蛍光灯に照らされた雨が見える。確かにどんな弱い雨だろうとそれは白い線を描いていて、気まぐれで嘘っぽい感じがする。だってそもそも雨って白くないでしょう。

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ザーザーやらポツポツやら音はするけれど、傘を差すも差さぬも自分がどのくらい濡れていいかのさじ加減である。傘を差してみたら「けっこう降ってるじゃん」と気付いて、でもそれは気づかなくてもいいことで。本音を強く持ち続ける(認識し続ける)ことなんて大抵できなくて、強くなったり弱くなったりする雨みたいに気まぐれで困ったものなのです。自分のことは自分が一番わからないことを知っている。

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足が痛いと言いつつヒールのあるサンダルを履く。ピンヒールじゃないから大丈夫だ。スニーカーに雨がじわじわ染みるより、素足に雨がかかる方が自分は気楽だ。このぐらいの雨だったら。